平泉の毛越寺境内に武蔵坊弁慶の墓と伝えられる五輪塔がある。文治5年(1189)、義経の居館、高館が攻められ、このとき弁慶は最後まで義経を守り、遂に衣川にて立往生したとされ、遺骸はこの地に葬られたという。後世、五輪塔わきに、中尊寺の僧が詠んだ歌碑も建てられた。
色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊
広く伝えられる弁慶の生涯は、『義経記』を始めとした、後世に成立した創作を基にしたもので、さらには江戸期の歌舞伎などにより拡散していったものと考えられる。当時の文献の吾妻鏡には、源義経の郎党として佐藤忠信らの名とともに「弁慶法師」「武蔵坊弁慶」の名が見られるが、出自や業績、最期等については全く触れられてはいない。
通説では、武蔵坊弁慶は、平安時代末期の僧衆で、元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは、義経に仕える怪力無双の荒法師として名高い。東北各地に多くの伝説を残しているが、その多くは「弁慶石」など、怪力に因むものが多い。
父は熊野別当湛増で、二位大納言の姫を強奪して弁慶を生ませたとされる。弁慶は、母の胎内に18ヶ月いて、生まれたときには2、3歳児の体つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたという。父はこれは鬼子だとして殺そうとしたが、叔母に引き取られて鬼若と命名され、京で育てられたとされる。
鬼若は、比叡山に入るが乱暴が過ぎて追い出されてしまう。鬼若は自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗り、四国から播磨へ行き、狼藉を繰り返して、播磨の書写山圓教寺の堂塔を炎上させてしまう。その後、京に戻り、千本の太刀を奪おうと悲願を立て、道行く人を襲い、通りがかりの武者を襲い太刀を奪い、999本まで集めた。あと一本というところで、笛を吹きつつ通りすがる牛若丸と出会う。弁慶は牛若丸の腰に佩びた見事な太刀に目を止め挑みかかるが、身軽な義経に翻弄され、返り討ちに遭った。弁慶はそれ以来義経の家来となったとされる。
その後、弁慶は義経の忠実な家来として活躍し、平家討伐に功名を立てる。しかし義経が、兄の源頼朝と対立したことで、義経は京から奥州平泉へ落ちることになる。一行は山伏に姿を変え、加賀国安宅の関で、富樫左衛門に見咎められ、弁慶は偽の勧進帳を読み上げ、疑われた義経を自らの金剛杖で打ち据える。富樫はそれを嘘と見破りながら、その心情を思い、義経一行を見逃す。
義経主従は、奥州平泉にたどり着き、藤原秀衡のもとへ身を寄せる。だが秀衡が死ぬと、子の藤原泰衡は頼朝による再三の圧力に屈し、父の遺言を破り、義経主従を衣川館に襲った。多数の敵勢を相手に、弁慶は義経を守り堂の入口に立って薙刀を振るい孤軍奮闘するも、雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命し、その最期は「弁慶の立往生」と後世に語り継がれた。
なお「義経北行伝説」では、義経主従は衣川館では死なず、平泉を脱して奥州の北端や蝦夷地へ逃れたとする伝説もあり、弁慶の伝説はさらに北へと広がっている。
義経が、兄の源頼朝と対立し、都落ちに到る中で、比叡山の悪僧らが義経を庇護しており、その中の俊章という僧が、義経を奥州まで案内したとされる。また文治5年(1189)には、義経の意を受けて京に向かった比叡山の悪僧の千光房七郎が鎌倉方に捕縛されている。恐らくは、後白河法皇の意を受けた各地の比叡山勢力が義経を助けていたのだろう。各地の弁慶伝説は、これらの複数の比叡山悪僧の所業が集められ、誇張されて、武蔵坊弁慶の伝説として伝えられているのかもしれない。
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