スポンサーリンク

豊臣政権下で、庄内地方を巡る上杉氏との争いで、上杉氏は重臣・直江兼続が石田三成経由で秀吉に接近、最上義光は、以前から懇意であった徳川家康を通じて交渉にあたったが、豊臣秀吉の裁定により、庄内地方は上杉領として公認された。このようなことから、義光は徳川家康には近い立場をとるようになり、次男・家親を諸大名に先駆けて徳川家の小姓として出仕させた。

また、文禄4年(1595)の秀次事件では、秀次の側室として上がって間もない義光の愛娘駒姫も、京三条河原で十五歳で処刑された。義光は家康の取り成しもあって必死で助命嘆願をしたが間に合わなかった。悲報を聞いた義光は数日間食事を摂ることもままならず、駒姫の生母・大崎氏はまもなく駒姫の後を追うように死亡している。また、義光自身も、伊達政宗らと共に秀次への加担を疑われ謹慎処分を受け、この処分は間もなく解けたが、義光の秀吉に対する憎悪は決定的なものとなった。

慶長3年(1598)、豊臣秀吉が死去すると、豊臣政権内では徳川家康と石田三成が鋭く対立するようになった。結局、徳川家康は大阪城西の丸に入り政務を行い、石田三成は居城の佐和山で挙兵の準備を始め、三成に同調していた上杉景勝もまた、会津で戦の準備を始めていた。慶長5年(1600)、家康は景勝が軍備を増強していることを詰問したが、上杉氏の重臣・直江兼続は、これに対して弾劾状ともいえる『直江状』で返答した。

これを受けた家康は会津征伐を開始することにし、義光ら奥羽の諸将の多くは徳川方に味方し、最上領内に集結した。しかし、家康が会津征伐に赴く最中、石田三成らが反家康を名目にして上方で挙兵、家康はこれを知ると会津攻撃を中止し、最上義光、伊達政宗、結城秀康らに景勝の牽制を命じ上方に引き返した。

これを受け、上杉との決戦は行われないとの見通しの下、奥羽諸将は最上領内から引き上げ始めた。徳川家康の重しがない中で、関ヶ原の戦いが長期化すれば、奥羽の地では、たちまちこれまでの争乱が表面化する恐れがあった。南部氏は、和賀・稗貫で起きている一揆を鎮圧するために自領へ戻り、伊達氏はすでに上杉氏の白石城を攻略していたが、それを返還することを約し講和を結び自領に引き上げた。

最上義光は、帰国する南部氏や出羽の諸氏と、東軍として家康の意向に従う旨の起請文をかわしたが、結局は上杉勢の最上領侵攻の前に孤立した。当時の最上氏は、山形県村山地方を中心に24万石、上杉氏は、会津を中心に白石、庄内に120万石の所領を有していた。兵力も最上氏4000、上杉氏は約2万7000で、最上氏は圧倒的に不利な情勢だった。義光はそれまでにはなく低姿勢で交渉し、「嫡男の義康をはじめ人質は何人でも出す」「指図しだいで自分が兵を率いてどこへでも出陣する」などとなりふりかまわず下手に出たが、上杉勢の直江兼続は了承しなかった。そして9月11日に米沢を発ち、山形を目指して進撃を始めた。

上杉景勝は、直江兼続に2万7千余の軍勢を預け、最上領侵攻を開始した。これに対抗する最上軍は7,000余だったが、実際は小野寺義道の牽制のため庄内にも出兵しており、4,000余でしかなかった。それでも義光は上杉軍に対して2,000挺もの鉄砲を駆使して抗戦した。

慶長5年9月8日、上杉軍は米沢と庄内の二方面から、最上領へ向けて侵攻を開始した。米沢を出た上杉軍は狐越街道、掛入石仲中山口などに分かれそれぞれ進軍した。それに対して最上軍は、居城の山形城をはじめ、畑谷城や長谷堂城など多くの支城にも兵力を分散せざるをえず、山形城には4000人ほどの兵力しかなかった。

怒涛の勢いの上杉軍は、9月12日には最上軍の白鷹方面最前線基地である畑谷城を包囲する。城方は江口光清以下500人ほどに過ぎず、義光は兵力を集中するため、江口に撤退を命令していた。しかし江口以下城兵は玉砕を覚悟で抵抗し、江口は敵軍の中に斬り込み、上杉軍にも1000人近い死傷者を出させた。しかし兵力の差はいかんともしがたく、江口は自害して果てた。

9月17日、直江軍とは別に掛入石仲中山口を進軍してきた上杉別動隊4000は、羽州街道最前線の上山城攻めに取りかかった。守将は最上氏の家臣・里見民部であり城兵はわずか500ほどにしか過ぎなかったが、里見民部は城門を開けて打って出た。上杉軍は反撃に出て城門付近で戦闘が繰り広げられた。民部は最上義光が与力として増派した部隊を城の外に出して待ち伏せさせ、上杉軍の背後から攻撃させた。背後を襲われた上杉軍は混乱に陥り、上杉方は大将他、多くの将兵が討たれた。この上山城攻めの苦戦で掛入石仲中山口からの上杉軍は、長谷堂城の戦いで戦闘中の直江本隊とは最後まで合流することが出来なかった。

一方、庄内の上杉軍は、酒田の東禅寺城からは志駄義秀が最上川を遡り、鶴岡の尾浦城からは下秀久が六十里越を超えて、村山郡の最上川西岸地域に侵入した。9月15日までに寒河江城・白岩城など村山の諸城を落とし、山野辺で上杉本隊と合流した。

各地で最上勢は地の利を生かし善戦したが、兵力の差は大きくしだいに押し込まれていった。さらに、最上義光と対立してきた小野寺義道は、最上氏に奪われていた湯沢城を包囲攻撃し始めた。しかし、最上氏の城将の楯岡満茂は善戦し、小野寺勢相手に城を守り抜いた。

直江兼続率いる上杉軍本体は、畑谷城を落としたあと、長谷堂城近くの菅沢山に陣を取り、長谷堂城を包囲した。長谷堂城は山形盆地の西南端にある須川の支流・本沢川の西側に位置し、山形城からは南西約8キロのあたりに位置する、山形城防衛において最も重要な支城であった。また、この時点で最上川西岸地域および須川西岸において唯一残る、最上氏側の拠点となっていた。つまり、長谷堂城が落ちれば上杉軍は後顧の憂いがなくなり、須川を挟んだ攻防を経て山形城攻城戦に取りかかることは明らかだった。

長谷堂城は最上氏の重臣・志村光安以下1000が守備し、直江兼続が指揮する上杉軍は1万8000、9月15日、兼続は大軍を背景に力攻めを敢行。最上義光は、鮭延秀綱を長谷堂城に送り、鮭延は9月16日には200名の決死隊で夜襲を仕掛けた。これにより上杉勢は同士討ちを起こすほどの混乱に陥り、兼続のいる本陣近くまで攻め寄せ、250人ほどの首を討ち取る戦果を挙げた。この時の鮭延秀綱の戦いぶりには、直江兼続からも「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめ、後日兼続から褒美が遣わされたという。

9月17日、兼続はさらに城を攻め立てたが、長谷堂城の周りは深田になっており、人も馬も足をとられ迅速に行動ができない。そこへ最上軍が一斉射撃を浴びせて上杉軍を散々に撃ちつけた。業を煮やした兼続は、長谷堂城付近で刈田狼藉を行い城兵を挑発するが、志村は挑発には乗らず、逆に兼続に対し「笑止」という返礼を送ったとされる。

最上義光は、嫡子・義康の建言を入れ、これまで敵対していた甥の伊達政宗に援軍を要請した。政宗は9月21日、留守政景隊3000を白石から笹谷峠を越えて山形城東側に着陣し、9月24日には直江兼続本陣から約2km北東に布陣した。また、最上義光も9月25日山形城を出陣し、稲荷塚に布陣した。ここにおいて一時戦況は膠着したが、9月29日、上杉勢は総攻撃を敢行、しかし長谷堂城を守る志村光安は善戦を続けた。

そのような中の同日の9月29日、直江兼続のもとに、関ヶ原の戦いで西軍が敗れた報が入った。上杉勢はただちに長谷堂城の包囲を解き、米沢城に退却を始めた。西軍の敗報を聞いた義光は、先頭に立って上杉勢を追撃したが、兼続は殿に多数の鉄砲を配し最上勢に打ち掛かり、義光自身も兜に被弾し、最上勢は結局あと一歩のところで兼続を取り逃がしてしまった。庄内から攻め込んだ上杉勢は逃げ遅れ、谷地城に籠った尾浦城の下秀久は降伏した。最上勢は六十里越街道を追撃し、酒田東禅寺城に籠った志駄義秀を攻め立てて下し、上杉勢は大きな犠牲を出しながら、朝日軍道を通り米沢に撤退した。

結局、最上義光は、この功により、最大版図の、庄内まで含んだ出羽一円を所領としたが、義光没後に求心力を失い家臣団が割れ、最上藩は改易となる。