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昭和20年(1945)3月10日未明、3機のB-29が相次いで不忘山に墜落し、アメリカの搭乗兵34人全員が死亡した。この3機が墜落した時間帯は、東京に300機を超えるB-29が襲来し無差別爆撃を行っており、推定で10万人以上が犠牲となった東京大空襲と重なる。

3機とも所属は別で、墜落した時間も それぞれが1時間ほどの間隔で、次々と墜落している。この時期、東北地方で大規模な爆撃は行われておらず、奥羽山脈越えの進入ルートの調査などは行われていなかったろう。またこの日の不忘山周辺は吹雪で、着氷などによるエンジンの不調などが原因だったと考えられる。

翌日、現地住民らが墜落現場に向かったようだ。米兵が生存していたら戦闘になるかもしれずと、猟銃を持って現地に入ると、 米兵が10メートル間隔で3、4人倒れているのを見つけた。 威嚇射撃をしたが反応はなく、恐る恐る近づくと、機体は真っ黒に焼け焦げて損傷していた。

それでも1番機の乗員は事故そのものからは生き延び、焚火の跡を囲むように座った状態で見つかり、またパラシュートにくるまり抱き合うようにして見つかった遺体もあった。墜落の衝撃を生き延びたものの、吹雪の中で凍死したとみられる様子だったという。

不忘山に墜落した B-29 の任務は東京爆撃とされているようだが、東京からは300km以上も離れており、東京爆撃とは全くの別任務だったと考えるのが妥当だろう。

当時、日本でも原子爆弾の研究がされており、東北地方にはそのような施設が散在していたようだ。

福島県石川町には、ウランをわずかに含むペグマタイトの鉱床があり、採掘がはじまっていた。また、宮城県柴田町には東洋一の海軍火薬廠があり、火薬式ロケットや、爆弾用爆薬の研究生産が行われており、原子爆弾の研究もなされていたと推測できる。

このB-29 は、奥羽山脈を越えてどこを目指していたのか。 墜落現場から回収された地図には、山形市の位置に赤丸が記されていたという。現在の山形蔵王のパラダイスゲレンデに、陸軍気象部の研究所があり、主に、着氷による戦闘機墜落の防止を目的にした研究が行われていた。また当時、山形市には 、原爆研究である 「ニ号研究」 を行っていた理化学研究所があり、この時期も原爆の研究を続けていたようだ。

この時期、アメリカは日本の原爆研究がどれほど進んでいるか、詳細はつかんではいなかったと思われる。実際にはウランの採掘、抽出はほぼゼロで、 「ニ号研究」 も基礎研究だけで、具体的な進捗はなかったようだ。アメリカは日本の原爆研究を過大に評価し、それを阻止するため、爆撃を企図し、そのためのシミュレーションを行ったと考えられる。

不幸なことに、偵察飛行だったろうこの飛行は、乗員34人全員死亡という悲劇に終わった。これは、当時陸軍が、樹氷の蔵王の山中で研究していたとされる、「着氷によるエンジン不調」が原因で墜落したものと推測する。

現在、不忘山山頂付近には、アメリカ兵の慰霊のため「不忘 の碑」が建てられており、また近年、山麓に不忘平和記念公園が造られ、 不忘の碑のレプリカが設置され、約230本の桜の木が植樹された。