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源義経は、兄頼朝から追われる身となり、文治元年(1185)11月、西国での再起を期して大物浦(だいもつのうら)から船出した。しかし主従は嵐に遭遇し、天王寺の浜に漂着した時、従うものは 愛妾の静御前のほか、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、佐藤忠信、伊勢三郎ら10数名に過ぎなかった。

一行は雪の吉野山にわけ入ったが、役行者以来の女人禁制の山であり、義経は弁慶らの諫言を入れ、静御前とは別れなければならなかった。義経は一時、中院谷(ちゅういんだに)に身を潜めていたが、鎌倉の意を受けた吉野山の衆徒が攻め寄せた。

このとき、平泉以来の郎党の佐藤忠信は、死を覚悟の殿を申し出、義経の身代わりとして、義経愛用の「緋縅の鎧に白星の兜」を身につけ、鬼神のごとき戦い、京の義経の館に戻り、鎌倉の六波羅勢と戦い討ち死にした。

義経主従は、結局は奥州の藤原秀衡を頼り平泉におちのびることになった。一行は、山伏姿に身をやつし、大物浦で別れたままになっていた北の方も、稚児姿に身を変えて、文治3年(1187)2月、奥州へ出立した。

直江津から船を仕立て、佐渡まで吹き流されたりしたが、鼠ヶ関の弁天島に上陸した。この地は、越後と奥州の境の地で関が置かれていた。この地では、歌舞伎の名場面、「勧進帳」のモチーフは、この地でのことと伝えられる。この地の古代鼠ヶ関は、平安時代中期から鎌倉初期までの10世紀から12世紀頃まで存在し、当時は関としての建物だけではなく、「関戸集落」全体が、軍事警察的な防御を目的とした「関」として成立していた。

鼠ヶ関の北東5里ほどの田川地域は、藤原氏の始祖の藤原清衡からの一族である田川氏が治めていた。田川は、古代より日本海岸の主要な交通ルートであった越後街道の庄内側出入り口にあたり、文化的にも重要な拠点として、当時は庄内地方の中心だった。一行が鼠ヶ関に上陸し、越後街道を通り庄内に差し掛かった折に、この地に二、三日逗留し、田川太郎実房の依頼により、息子の病気平癒の祈祷を行ったと伝えられる。

一行は、現在の鶴岡市に向かう途中、由良峠で弁慶が薙刀を地面に突き刺したところ清水が沸き出し、主従はその清水で喉を潤したと伝えられる。赤い鳥居とお堂があり、中には三体の石像が祀られ、手には長刀を持っている。

義経主従は、現在の鶴岡市を通り庄内町清川に向かった。清川は、松尾芭蕉が最上川を下った際に上陸した川湊であり、義経の時代にも最上川舟運の拠点だったようだ。

また清川には前九年の役の折に、源氏の祖の源頼義が戦勝祈願を行ったと伝えられる御諸皇子神社があり、主従はその前例に倣い、舞楽を奉納したようだ。また、摩利支天の像、青葉笛、弁慶鎖鉢巻、弁慶の祈願文が奉納され、それらは今も残されていると云う。

一行は、清川から舟で最上峡を遡った。最上川は、清川の上流では山が迫り、峡谷の様相をていしている。この最上峡には細く流れ落ちる白糸の滝があり、昔から都人にも聞こえた名勝だった。この地は、すでに奥州藤原氏が支配する地であり、鎌倉の手も及びにくく、張り詰めていた気持ちが少し緩んだのかもしれない。義経も北の方もこの景色に感じて歌を詠んだと云う。
 最上川 瀬々の白波つきさへて よるおもしろき 白糸の滝    … 義経
 もがみ川 せせの岩浪せきとめよ よらてそ通る 白糸の滝    … 北の方
 ひきまわす うちばはゆみにあらねども たかやてさるを 射て見つる哉  … 北の方

この白糸の滝の上流半里ほどの右岸に仙人堂があり、最上川の舟運の守り神として古くから信仰を集めている。この仙人堂には、義経の家臣の常陸坊海尊の次のような伝説が伝えられている。

常陸坊海尊は義経と一緒に平泉へ逃れる一行の中にあったが、手傷を負っていた。海尊は、このままでは義経の足手まといになるのを恐れ、この地に一人残った。海尊はこの地で修業を積み、仙人になったと伝えられる。

主従は、本合海の地で舟をおりて現在の新庄の地に向かうことになる。本合海の地で最上川は八向山の崖にぶつかり大きく流れを変え、この地は古くから川岸集落としての重要性に富み、「合河乃津(あいかわのつ)」として古文書にも見える。奈良・平安時代以前より交通の要衝として栄えていたと推察される。

この地の最上川が削り取った白い崖の中腹に矢向神社が鎮座しており、日本武尊を祀ったものと伝えられ、平安時代中期の貞観16年(874)には、従五位下を授けられたとの記録があり、古来、最上川を上下する舟人の信仰を集める。義経主従は、この矢向神社を伏し拝み、新庄から亀割峠を越えて平泉に逃れていく。