2007/04/25取材 青森県弘前市

 

歴史散策⇒弘前城址

弘前に入り、いよいよ今回の取材のメインの一つの弘前城だ。意識して桜の満開の時期はさけた。幸いなことに?弘前の桜はこの日開花宣言をしたばかりだ。

もちろん満開の桜の弘前城は魅力的だし、絵になるのは分かってはいる。しかしその人込みを考えると、城をくまなく歩き、写真を撮ることが今回の目的であることを考えると、意図的に満開の時期をさけざるを得なかった。

まだ花見客が出る前に弘前に着いた。しかしはたと困った、駐車場がみなまだ開いていない。考えてみればそうだ。町中のこの地の観光の目玉の、それも桜祭りの最中だ。地方の山城と違い、車をほっぽって置けるような場所はない。

うろうろしているうちに、車の通りは多くなってくる、花見客が集まり始める。駐車場が開くのを待ちかねて車を置き、外堀の周りを歩き始めた。まったくうらやましい限りだ、街中の平城で、三の丸、二の丸、本丸と、その城域がほぼそのまま残っている。

これは、この弘前の方々の、城に対する強い思いがあったことは勿論だろうが、戊辰戦争の折に、津軽藩は官軍側であったことも大きく影響しているのだろう。

亀甲門のところから歩き始めたが、亀甲門そのものは意図的にスルーした。花見客が次第に増え始めていることへの焦りと、「おいしいものは最後に」の貧乏人根性が、こういうときもそうさせる。

外堀の撮影ポイントを探しながら周る。岩木山が美しく、それをさらに彩る桜がまだ蕾であることは残念に思えてきたが、だがそれはいたしかたない。

外堀位置にある門はどれも見逃せない、東門を撮影し、追手門まで来た。ここまでは多くなる花見客に気が急いていたが、ここに来てそれは吹き飛んだ。戦いの為の門でありながら、なんと優雅なことか。入り組んだ枡形と虎口は、堅固な守りにするために合理的に配されたものだろうが、それはあたかも美のみを追求した究極の結果に思える。もう時間は気にならなかった。遠くから、そして近くにより、門に触れ、腰を下ろし十分に堪能し城内に入った。

追手門を入ると、そこは三の丸跡でやたら広い。まっすぐ北に進むと中堀があり、辰巳櫓、未申櫓があった。どちらの櫓も三層の櫓だがさほど大きくはない。威圧感はなく、桜の蕾のせいか、愛嬌さえある。その二つの櫓の間に、赤い「杉の大橋」がかかり、そこに南内門があった。ほころびかけた桜の花に、赤い杉の大橋、そして石垣、その奥に黒と白のコントラストの南内門、門の内側に入り、そちらからも撮影、遠くに三層の天守が見える。見て見ぬふり、おいしいものは後回しである。

本丸に行く前に、どうしても確認しておきたい場所があった。「館神跡」である。津軽為信は、徳川の世になってもなお、世話になった豊臣秀吉の像を館神として祀り、開かずの社としていたという。このことから、「小説・蟠龍雲に沖いる」では、津軽為信を、子供のような律義さを持った謀将として扱ったつもりだ。館神跡は、土塁に囲まれた一角に、確かに、小さいながら律義に、きっちりとあった。

さて、いよいよ本丸天守だ。やはり南の内門から入るのが弘前城に対する礼儀だろう。改めて入りなおし、先ほどは見てみぬふりをした天守を正面から捉えた。三層の天守がその立ち姿を艶やかに堀に映す。堀にかかる赤い下乗橋と花を開いたばかりの桜の花が天守の美しさをさらに際立たせる。

ここには最初は五層の天守が建てられたというが、大きければ良いわけではない。優雅さにおいて、この三層の天守こそがベストのように思えた。桜の満開の時期を意図的に避けてきたのではあるが、なんとも悔やまれる。間に朱の下乗橋を置き、満開の桜の中の、堀に映る天守の立ち姿は、誰もが魅了される弘前城のベストビューポイントだろう。

桜を撮りに来たのではないと悔し紛れに言い聞かせ、橋を渡り本丸内に入った。枡形を形成する石垣上に、私の心を見透かしたように、七分咲きほどの枝垂れ桜の古木が出迎えてくれた。当然桜の姿をカメラに収めた。他の花見客の方々も思いは同じようで、下乗橋の桜の蕾への思いを、この早咲きの枝垂れ桜で晴らすように、カメラに収めていた。

桜の花は、確かに人の心を少し狂わすようだ。花見客が多くなり始めている。この城に来た目的は、「要塞」としての弘前城を確認取材に来たのだ。桜の中の美しさは、取材の目的からすれば副次的なものなはずだ。それでも、いつか、満開の桜の下の弘前城を満喫したいものと思う。気を取り直して、本丸の平場に上った。

西の掘上にすっかり明けた朝の光の中に、残雪の岩木山が浮かぶ。この美しい春の姿があるから、この地の人々は、冬の寒さも、吹き付ける岩木おろしも耐えているようにすら思える。

かつて私は幾度か仕事で冬の弘前を訪れている。この地の冬は長く、そして厳しい。しかしながら、冬を乗り越えた時のこの町の美しさが、弘前城の地に凝縮されているような気がする。だからこそこの地の人々は、この地の城を、桜を、岩木山の眺めを、こよなく大事にしているのだろう。

改めて思えば、経済的な合理性のみを追求する現代において、街中の平城で、三の丸、二の丸も含めて、その城域と城門の殆どを残している町は稀有といっていい。これは、かつて戊辰戦争の折に官軍側であったことと無関係ではないとは思うが、それにもまして、この城の春の美しさを誇りとしているからだろう。

北の郭、内堀、西の堀周辺を歩き、新たな角度からの弘前城の美しさに魅了されながら、最後に、この城で唯一実戦の経験を持つ、大光寺新城の大手門であった亀甲門に抜けた。矢じりの跡を見て、要塞としての弘前城の取材が目的であったことを思い出した。

花見客がどんどん増えている。いずれ満開の桜の弘前城を訪れたいものと思いながら、近くにあるはずの、弘前カトリック教会に向かった。