2007/04/25取材 青森県弘前市

 

歴史散策⇒堀越城跡

大光寺新城から西に、交差点位置にある熊野神社の赤い鳥居を目標にして走り弘前に入ると堀越城はすぐに見つかった。

堀越城は、津軽為信が津軽統一の拠点とした城だ。車を停め、熊野神社の鳥居をくぐると草地になり、そこは二の郭のあとらしい。平城で、地形からすると、湿地帯と水堀で守られた城のようだ。恐らく三重の水堀が回されていたと思われる。

二の郭跡にある鳥居は古い白木の鳥居の脇に2つの謎の土饅頭状の土盛りがあり(後に調べたら、土塁跡だということだった)、結構幅の広い水堀跡があった。本郭は周囲を内堀と土塁で囲まれており、熊野神社の社が建つが意外と狭い。

平城としてそれなりの構えを持ってはいるが、山城とは異なり、それほど堅固な守りとはいえない気がした。特に、隣接する大鰐の南部の名将石川高信(南部信直の実父)の守る石川城と比べればその差は大きい。

津軽為信は、南部の頚木の下で、堅固な城を築城することもかなわず、謀略の限りをつくし津軽統一を果たしていったのだろう。そして、守りは考えず、攻めに攻めていったのだろう。この城からはその豪胆さが伺える。

それでも、為信は防備の弱さを気にしてはいたようだ。津軽統一をはたしてまもなく、弘前城の築城を始め、津軽平野の真ん中に、堂々たる平城を築くことになる。

主城が弘前城に移りこの城は廃城になったが、その後も、この地は津軽の発祥の地として大事に保全されたという。