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今回の放浪は、仕事も含めてすでに8日になっていた。その最終日に、雲の十和田湖の絶景に出会い、その後、国道282号線を南下しながら、未収録の10ヶ所ほどを訪れた。雲の十和田湖での高揚感もあり、疲れは感じていなかった。それでもすでに午後3時を過ぎており、今回の最後の予定の、長慶天皇伝説を色濃く伝えている天台寺を訪れるつもりだった。

その途中、「ダンブリ長者屋敷跡」なる表示を見つけた。この鹿角から八幡平のルートには、随所にダンブリ長者伝説がある。信仰深い夫婦が、ダンブリ(トンボ)の導きで酒が湧き出る泉を見つけ、長者になったという伝説である。伝説自体は、養老伝説風のたわいもないものだが、この地域の蝦夷と大和政権との関係からこの伝説を考えると興味深いものがある。その伝説の地がここだという。

表示板に導かれて山中に分け入った。思った以上に山奥で、それでも道は悪くない。それなりに整備はされているが、特段、何かの設備があるわけでもない。「酒が湧き出た泉」の跡という表示があったが、形だけの石組みがあるだけだ。当然「史跡」などであるわけもなく、恐らくは、この地の方々の野外活動の場なのだろう。時代考証がどうのと騒ぎ立てる必要もないだろう。

大館市から八幡平市にかけての地域のほぼ中心には大湯環状列石があり、かなり古い時期から独自の文化圏を持っていたことは確実である。ダンブリ長者伝説では、長者の娘が継体天皇の妃になったとあり、日本書紀に記載されているという、みちのく出身の継体天皇の妃がそれにあたるとも考えられる。

そう考えれば、「ダンブリ長者」とは、大湯環状列石からつながる、この地域の蝦夷の長であり、その娘が継体天皇の妃となったのは、中央政権が、蝦夷勢力を取り込もうとする証だったのかもしれない。継体天皇の出自は「越」と関わりがあり、その後、「越」の安倍比羅夫が、秋田の能代から米代川を上り蝦夷を制圧したこととも関わってくるのかもしれない。


県道8号線に出た頃には午後4時半を過ぎており、この時期、日は長いとは言えさすがに気はせいていた。県道を約17kmほど北東に進み、今回の最終地になるだろう天台寺に着いた。

天台寺は、奈良時代の神亀5年(728)、聖武天皇の勅命を受けた行基が、山中の桂の大木を刻み本尊の聖観音像を奉り、天皇直筆の額を掲げて開山したと云う。この地を支配していた南部氏は、有力な南朝方の勢力であり、南朝が衰退してからも、北畠氏など南朝方を庇護していた。

この天台寺には、長慶天皇の墓や、その后の墓と伝えられるものがある。長慶天皇は第98代天皇にして、後村上天皇の第一皇子で、南朝の第三代天皇である。関係史料が少ないことから、その実在も含め長く議論されたが、現在はその在位は定説となっているらしい。しかし、その生い立ちや事跡など不明な点も多く、その墓所も確定には至っておらず、東北地方を中心に20箇所以上に伝承として伝えられる。

この二戸の地は、南部氏の本拠地にも近く、また墓のある天台寺は奈良時代からの歴史のある古刹で、北奥羽の仏教の中心地だったとも言える地である。陸奥を拠点とし南朝の復活を意図する長慶天皇が、この地に至ったということは十分に考えられる。

またこの天台寺境内には、「土踏まずの丘」と呼ばれる、小高い塚がある。昔から、何人もこの塚に登ることは禁じられており、除草するときも匍匐し手を伸ばし行なっていたと云うことから「土踏まずの丘」と呼ばれているという。この塚は、長慶天皇の妃の「阿佐妃」の墓とする説もあるが、もちろん定かではない。

今回の放浪では、とりあえず気になっていたところはほぼ回り終えた。出羽二見や十二湖、滝ノ沢峠などで一期一会の絶景を見ることができた。最後には、長慶天皇の新たな謎に出会うこともできた。放浪の神様は私に多くの土産を与えてくれた。

日が長い時期とはいえ、さすがにすでに日が暮れかかっていた。この二戸から仙台までの帰り道はまだまだ遠い。とりあえず盛岡まで走り、遅い夕食をとり、長慶天皇の謎をとりとめもなく考えながら、仙台までの夜の国道をのんびりと走った。