青森県弘前市堀越字柏田

震災前取材

 

堀越城は、津軽統一を成し遂げた津軽藩祖津軽(大浦)為信が文禄3年(1594)から17年間、津軽統一の拠点とした城。

土塁と水堀で防御した平城で、当時は堀越地区全体を囲む総構えの城だったと伝えられる。本郭は、東西約80m、南北約90mで、高さ約2mの土塁と幅約10mの水堀で囲まれていた。本郭の東側に二ノ郭が配され、それを囲むように三ノ郭がある。

現在は、本郭跡は熊野宮となっており、二ノ郭、三ノ郭跡は果樹園、空地となっている。弘前城、種里城と共に「津軽氏城跡」として国指定史跡になっている。

この城は南北朝時代(14世紀)に平賀郡岩楯の相伝地頭をつとめた曽我太郎貞光によって、建武3年(1337)に築城されたと伝えられる。貞光は南朝方であったが、その論功行賞に不満を抱き北朝方に転じ、南朝方の諸城攻略の拠点としてこの城を築いたと言われる。しかし貞光は、元中年間(1380~92)に田舎郡の八戸南部政光、三戸南部氏らに攻められ滅び、この地は南部氏の支配下となった。

その後、この城は南部一族の大浦氏の支城となった。大浦氏は南部からの独立を目指し、元亀2年(1571)、為信は津軽三郡の郡代である石川高信より堀越城修復の許可を得て、この城の改修を行うと見せかけ、兵糧や武具を運び込み、大工や人夫に見せかけ兵を引き入れた。そして修築完了の祝宴の夜に兵を挙げ石川城を急襲し、石川高信は妻子共々自害して果てたという(異説あり)。

その後、大浦為信は堀越城を拠点として南部氏の諸城を次々と攻撃し、浪岡城を攻め落とすなど、天正16年(1588)頃には津軽一帯と外ヶ浜占領に成功した。当時三戸南部氏は、九戸氏との争乱に明け暮れており、その間に為信は、天正18年(1590)には豊臣秀吉の小田原征伐にいち早く参陣し、南部氏を出し抜き豊臣秀吉の下に上がり所領を安堵され、津軽の独立は完成した。

関ヶ原合戦の際に、長男の信建は秀頼の小姓として大阪城にあり、為信は次男の信牧とともに手勢2,000を率いて東軍として参陣した。為信は兵数が足りないとして津軽に援軍追加の命を伝え、津軽から800の兵が向かうことになった。しかし尾崎喜蔵、多田玄蕃、板垣兵部将兼らは、西軍の勝利を信じてこれに従わず、謀反を起こし、一時堀越城は占拠された。しかし関ヶ原の合戦では東軍が勝利し、板垣らの反乱は鎮圧された。

さらに慶長7年(1602)、為信が長男信建の子の大熊丸に誤って大火傷を負わせてしまった事に端を発し、家臣の天童氏が堀越城に切り込んだ「天童事件」が発生した。為信は、堀越城は居城として守りに不備があると感じ、慶長16年(1611)、高岡(弘前)の地に新城を計画し築城を始めた。

二代藩主信枚の時に弘前城は完成し、堀越城は役割を終え、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。

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