2010/05/15取材

 

歴史散策⇒久保田城址

この日のメインは、この秋田久保田城だった。秋田市はかつて幾度か仕事で訪れたことがあったが、当時は仕事に夢中で、接待で夜の川反に行くことはあっても、「歴史散策」に目が向くことはなかった。今思えば、なんとも余裕のない日々を過ごしていたようだ。

久保田城については、秋田に減封された佐竹氏が、徳川の顔色を伺いながら築いた、土塁中心の平城と云う先入観があり、実はあまり大きな期待はしていなかった。

佐竹氏は、常陸太田の地から関東を伺い、そして南奥を伺い、伊達政宗とも熾烈な争いを繰り広げた戦国の雄である。南奥に残る佐竹氏が築いた城の多くは山城で、その規模は佐竹氏の野望を表し、壮大で技巧に富んだものだ。その佐竹氏が、徳川に「媚びた」城に、余り良い印象は持っていなかった。

しかしである、秋田の市街地のど真ん中に残るこの城は、紛れもない佐竹義宣の徳川に対する反骨の「山城」だった。

まず驚くのは、本丸南側の水堀である。その幅は非常に広く、古図で見れば、さらにその外側にも同様の水堀が設けられていたようであり、徳川との一戦も想定してのものであるようにも思えた。

本丸内に進むとさらに驚きだった。長坂門にいたる登城路はまさに山城のもので、山肌を削り土塁を積み上げ、虎口を設け、至る所に南奥の佐竹氏の城の技巧が見られる。秋田平野のど真ん中の、わずか標高40mの神明山は、山体そのものが山城に変容している。本丸西側から北側に巡る土塁は高く急峻な斜面を形成し、西国の高石垣の城に引けをとるものではない。

この城に感じられる「戦いの城」の様相に感激しながら西側の土塁上を進むと、復元された隅櫓が見えてきた。しかしどうにも違和感がある。中は資料館になっており、もしかしてこれも「模擬櫓」かと思い、受付の方に「この櫓は復元櫓なのですか」と尋ねると、「復元にも色々な意味がありまして…」との答だった。これだけで、ここまでの感動が半分にしぼんでしまった。

秋田県の城跡を訪れると、どういうわけか模擬天守、模擬櫓が建っていることが多く、中には城がなかったところにまで模擬天守が建っている始末だ。この地方では、ある時期にそれが「流行」したのかもしれない。この久保田城の「模擬櫓」について後で調べたことだが、本来は二層のものだったものを、観光のために目立つものにという意図から、展望台を加えたものということだった。

しかし、この「模擬櫓」は別にして、築城者の佐竹義宣に思いをいたせば、この城は決して徳川に媚びたものではないということは確かだろう。それどころか、治世を考えてのものであることは確かだが、明らかに戦いを意識した城で、場合によっては徳川勢と一戦も辞さない、それまでの佐竹氏の築城術の集大成だったと私には思われた。