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秋田県秋田市千秋公園

震災前取材

 

別名:秋田城、矢留城、葛根城

久保田城は秋田久保田藩主佐竹氏の居城である。

雄物川の支流仁別川左岸、標高40mの半独立丘陵の神明山に築かれた平山城。石垣は基底部に僅かにあるのみで、その上に土塁が築かれ、天守も持たず塁上に御出書院と呼ばれる隅櫓を建ててその代わりとし、8棟の櫓を建て並べていた。石垣は殆ど用いられていないが、山川沼沢を巧みに利用し防御を図っており、水堀や円郭式城郭など西国の様式も採り入れられている。

明治13年(1880)の大火で城内の建造物はほぼ焼失しており、市街再建の過程で堀の多くも埋め立てられ、官庁街へと変貌した。現在、久保田城の一帯は千秋公園となり、県民会館や図書館、美術館などがある。建造物としては、大火を唯一逃れた御物頭御番所が現存し、本丸表門が復元され、隅櫓があった位置に、資料館として模擬櫓が建っている。

常陸から秋田へ移り、佐竹氏は当初は土崎にあった安東氏の居城だった湊城へ入城した。しかし常陸では54万石の大名であった佐竹氏は多くの家臣団を抱え、湊城では狭く、また平城であり要害の地ではないとの理由から新しく築城を計画した。当初は本城を秋田周辺とする案と、横手周辺とする案とがあったが、領内の中央にあり、土崎港を外港とし、政治や経済を抑えるのに有利とし、藩主義宣が秋田の地に決っした。

久保田城がある地は神明山と呼ばれ、西側を仁別川(旭川)、東側には当時長沼(現在は存在しない)があり、北側にも水堀をまわし、丘陵の地形を活かした急斜面と郭で守られている。南側は四重の水掘を廻し家臣を配し固めている。高い石垣や天守閣はないが、随所に山城の技巧が凝らされている。

佐竹氏は、常陸太田を本拠として北関東を制覇し、南奥まで勢力を拡大し、伊達政宗と争った。しかし人取橋の合戦と摺上原の合戦で伊達に遅れをとり、また豊臣秀吉の全国統一の流れの中で南奥制覇を断念し、豊臣政権の中で勢力を保持した。

豊臣政権下では五大老に次ぐ影響力を持ち、石田三成とは昵懇であり、上杉景勝とも親交があった。関ヶ原の戦いの時期には、2万の兵力を動員することが出来たと云うが、西軍寄りの行動をとり、そのため関ヶ原後、石高不明のまま秋田に移封された。このとき徳川家康の命で京にあった義宣は、所領の常陸に戻ることも許されず、そのまま京から、わずか90余騎の供連れで直接秋田に入ったと云う。

しかしその後は転封もなく秋田佐竹初代藩主義宣から十二代の間秋田藩を統治し明治に至った。

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