2010/05/08取材

 

歴史散策⇒松平家廟所

下郷町から会津若松に入り一泊し、翌日早朝、東山周辺の伝説の地をいくつか写真に収めた後、会津松平家廟所を訪れた。

初代の保科正之の廟は猪苗代にあるが、他の歴代の廟はこの会津若松東山の地にある。一山がすべてが廟所であり、古い石段の残る新緑の山は、地元の方々の早朝のトレッキングにも利用されているようだ。

かつては衛士が置かれていたのだろう廟所の入口の門を過ぎると、「西の御庭」「中の御庭」「二代藩主の墓」と続き、どうやらこの一角は仏式による葬方によるものと思われる。さらに奥に進むと、神式で葬られた歴代藩主の墓所があった。

会津松平家は、歴代の多くはその葬礼を神道に求めており、かつて訪れた猪苗代の保科正之の廟は他の大名家の廟所とは大きく趣を異にしていた。この地の墓所も初代正之の墓所と同様のものではあるが、歴代の墓石が一定の秩序を持って建ち並ぶ様子は壮観でもあった。

最前列右側に、霊亀を礎石とした、碑文が刻された巨大な石柱がたち、その奥にはこれも巨大で独特の形状の石灯篭を一対配し、その奥に墓石、さらに奥には塚が築かれ上に堂の形状の鎮石が建てられている。その配置を一組にして歴代藩主の墓石が建ち並ぶ。

伊達家、上杉家など、それぞれの大名家にはそれぞれの葬方があり、また格式もあり、さらには歴代藩主の歴史的背景や宗教観から、ある時期から葬方ががらっと変わったりと興味は尽きないが、この会津松平家の廟所は、それらの中でも異彩を放つものだ。

新緑の山中で、鳥の声を聞きながらこの地の長い歴史と眠る御霊に手を合わせていると、毎朝、健康のためにこの山をトレッキングしているという一組のご夫婦が登ってこられ、早朝の木漏れ日の中で手を合わせた。