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宮城県大崎市古川下中目字砂田

震災前取材

別名:中目館

大崎氏の重臣で、大崎氏四家老といわれた中目兵庫の居館と伝えられる。

中目氏は、陸奥国苅田郡中目邑を発祥とする豪族で、応永年間(1394~1428)に中目太郎三郎の名が見える。大崎氏が奥州探題職になると、大崎氏に従属したものと思われ、大崎の兵庫館を居城とした。

天正16年(1588)、大崎氏の内部争いに端を発した大崎合戦に際しては、反伊達方として桑折城に入っている。さらに同18年(1590)の大崎葛西一揆の際には、中目相模が立て籠もり、松山城主遠藤出羽守高康の父心休斎の攻撃で落城、相模は討死したとも逃亡したともいわれる。大崎氏滅亡後は、仙台藩の一家となった者、出羽国角館に移り佐竹氏に従った者とがある。

館跡は、大崎平野の微高地にあり、湿地帯と水堀に囲まれた平城と思われる。往時は東西170m、南北140mほどの規模を有し、周囲には幅10~20mのほどの水堀が巡っていたという。頂部の80×40mほどの平場が主郭であり、西側隅に稲荷社が祀られている。その周囲を同心円状に1~2段の平場が取り巻いており、南辺の広いところで約50m、ほか3辺は10~20mほどになる。周囲の水田の形に、かつての水堀の跡がうかがえる。また西側に万年寺があり、この微高地も、なんらかの郭だったとも思われる。