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宮城県栗原市高清水字中町…福現寺

震災前取材

 

 

栗原市の福現寺は、宝暦7年(1757)以前は亘理家の菩提寺で安楽寺と呼ばれていた。亘理宗根を初めとした四代の墓が残されている。

亘理宗根の母である、香の前が埋葬されたと伝えられているが、現在、その場所は不明で特定されていない。

香の前は、豊臣秀吉の側室で、容姿艶美坐作静粛と謳われた女性で、秀吉の寵愛も大きかった。本名をお種と言い、京都伏見の侍高田次郎右衛門の娘。梅の花の香りをこよなく好み、「香道」を嗜み、よく沈香や白檀などの香木、丁子や安息香などの香料を持ち込み部屋でたいていたため、いつしか「香の前」と呼ばれたとも伝えられる。

文禄元年(1592)1月、伊達政宗は家臣を引き連れ、朝鮮半島に渡った。政宗は出陣に際し、重臣茂庭綱元を秀吉の本陣、肥前名護屋城下に代官として残した。秀吉は綱元の人柄と才能を見込み、自分の家臣にするべく綱元を誘っていたが、鋼元はこれを固持し続けた。諦めきれない秀吉は、ある日碁の対局で決着を付けるよう迫った。綱元が負ければ首を差し出すか家臣になるかの何れかで、綱元が勝てば秀吉の十六人の側室の中から好きな一人を選んでよいとの条件だった。

綱元は、幸いなことに碁の勝負で勝ち、秀吉は約を果たすために、側室達を盛装させて綱元に選ばせた。綱元は、これらの美姫には目もくれず、部屋を清掃していた質素な女性を選んだ。これが、秀吉が当時最も寵愛していた香の前だった。

これらの話には異説もあるが、いずれにしても、茂庭綱元は秀吉から茂庭の姓をもらい鬼庭から改名し、秀吉の側室を貰い受けた。しかしこのことは、秀吉による家臣の切り崩しを恐れていた伊達政宗の怒りをかい、綱元は、知行を100石以下に落とされ、隠居するように命じられた。これにより綱元は、香の前を連れて伊達家を一時離れた。数年後、綱元は政宗に赦されて帰参した。このとき、綱元は香の前を政宗に差し出したと云う。

その後お種は、娘津多と息子又次郎を産み、茂庭綱元の子として育てられたが、このようなことから、津多と又次郎は、政宗の落胤と取りざたされた。その後、娘津多は、伊達家代々の宿老である原田家に嫁し、寛文事件の主役、原田甲斐の母となる。息子又次郎は、伊達家重臣の亘理重宗の養子となり、亘理宗根と改め、高清水亘理家を興した。

香の前は宗根に従い、この高清水の地に暮らし、生涯を終えた。