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宮城県栗原市高清水東館

震災前取材

別名:高清水要害

高清水城は、天文年間(1532~55)に、大崎義兼の三男高泉直堅が築城した。直堅の子直隆の代に大崎氏滅亡とともに高泉氏は没落した。

高泉氏は、慶長5年(1600)、政宗の白石城攻撃に参陣、また出羽合戦には留守政景らと最上氏救援に向かい、これらの武功により、輝宗所要の甲冑と指小旗を賜り伊達の家臣となった。

葛西・大崎一揆の際には、伊達政宗の陣所として使用された。天正19年(1591)この地は伊達領となり、慶長6年(1601)に亘理重宗が1千石で入った。宝暦7年(1757)には石母田興頼が4千石で入り、石母田氏が明治維新まで居住した。

城は低い丘陵地に築かれた平城で、東側に本丸を設け、その西側に曲輪を置き、土塁と水堀で囲まれていた。水堀は東側にある本丸から北側、西側に延びているが、南側には設けられていなかった。大手口は西側にあり、曲輪の途中に楼門形式の大手門が設けられていた。本丸の西側には詰の門があり、隣接して三層櫓があった。居館は本丸に置かれ、西側の曲輪に家臣の屋敷があった。

明治元年(1867)戊辰戦争後、この地は宇都宮藩取締地となり、この地に取り締まり所が設置された。この地の管轄は目まぐるしく替わり、明治6年(1874)廃城となった。

現在本丸跡は高清水中学校となり、曲輪は住宅地となっている。外濠は「外濠公園」として整備されている。