岩手県釜石市平田第八地割

震災前取材

 

尾崎神社の創建については、定かではないが、日本武尊が祭神としてあり、その伝説を伝えている。また古くから海の神として信仰をあつめていたようで綿津見神をも祭神として祀っており、創建はかなり古いと思われる。日本書紀には蝦夷を平定し、蝦夷の王に「吾は是、現人神の子なり」と告げたと記されている。これらのことから、当初は土俗的な自然崇拝の地であったものが、大和朝廷の勢力伸長とともに、日本武尊が祭神となったと考えられる。

尾崎神社には「奥の院」「奥宮」「里宮」があり、近郷近在の人々からは「おさきさん」の愛称で親しまれ、今も漁業、商業、農業、工業を営む人々から篤く信仰されている。

尾崎半島の先端にある奥の院には、日本武尊が岩に突き刺したとされる宝剣が、そのまま今も残っているという。地上部に1.2mほど出ており、触れてはならないと伝えられており、地中の長さやその成分など、調査はされていないと云う。

この地は中世には閉伊氏が所領としており、そのため尾崎神社は閉伊氏の祖の閉伊頼基も祭神としている。閉伊氏は、保元の乱(1156)において活躍した、鎮西八郎源為朝の子孫と伝えられている。保元の乱に敗れた為朝は伊豆大島に流刑の身となり、大島で島冠者為頼が生まれた。閉伊氏はこの為頼を始祖とされる。その後、為頼は源頼朝に仕え、奥州合戦後に頼朝から奥州閉伊郡の地頭職を給わり、頼基の時の建久元年(1190)この地に下向したとされる。承久2年(1220)、頼基は没すると、その遺言によりこの地に葬られた。

このとき、七人の重臣が殉死し、頼基の嫡子の家朝はその志を憐れみ、七社の明神に斉祀したという。

以来武神として、歴代領主が尊崇するところとなった。江戸期に入っても、代々の南部藩主にも崇敬され、直参、代参がしばしばなされ、享保4年(1719)には大明神号宗源宣旨が下された。