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福島県郡山市日和田町字日和田

震災前取材

 

郡山市日和田の蛇骨地蔵堂は、養老7年(713)に開山されたと伝えられ、現在の建物は享保3年(1718)、二本松藩主丹羽秀延の時代に再建されたもの。

この地蔵堂には、次のような由来が伝えられている。

昔、この地は、安積左衛門忠繁という領主が治めていた。忠繁には、あやめ姫という美しい娘がいた。彼女に心を寄せる若者は多かったが、あるときこのあやめ姫に恋した家臣の安積玄蕃が、結婚の申込みをしたがこれを父親に断られ、これを恨んだ玄蕃は、母親と父の忠繁を殺してしまった。

あやめ姫は大変嘆き悲しみ、館の近くの安積沼に身を投げてしまった。この悲しみと恨みの心は、その姿を大蛇に変え、荒神となって天変地異を起こすようになった。不作が続く里人は、毎年村の娘を一人づつ人身御供に捧げることにして、あらぶる霊をなぐさめようとした。

それから30年余りが過ぎたある日の事、33人目の人身御供に選ばれた娘の父親はあきらめきれず、娘の命を助けて欲しいと長谷の観音に参拝し、そこで佐世姫という両親ともに死別した娘に出会った。佐世姫はこの話を聞くと、自分が身代わりになるという。大蛇の棲む沼の傍で佐世姫がお経を読み始めると、水面がにわかに波立ち、中から大蛇が現れた。

佐世姫はかまわず静かに経を読み続けると、初めは荒ぶっていた大蛇はやがて静まり、あやめ姫が現れた。あやめ姫は、「あなたの気高い心とお経のおかげで、やっと迷いからさめて往生できました」と、天女となり天界へ舞い上がっていった。

あとには、大蛇の骨が残され、佐世姫はその蛇骨で地蔵尊を彫り、あやめ姫の冥福を祈ったと云う。この佐世姫と、人身御供になった32人の娘達を祀ったという三十三観音が、地蔵堂の後ろに並んでいる。