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福島県桑折町北町
桑折(こおり)宿は江戸から五十四番目の宿場。
桑折は古くは奈良時代、都から奥州へ向かう東山道がここを遠り、宿駅が設置されたことに始まる。この地の行政を行なう郡家が置かれ、桑折郡と称されるようになった。当時の宿駅の中心は現在の桑折の町より南の成田地区にあった。
この地は、源頼朝の奥州攻めの折にこれに従い功のあった常陸入道念西に与えられた。念西は常陸国伊佐荘(茨城県下館市)に住んでいたが、文治5年(1189)8月、石名坂の戦いに信夫の庄司佐藤基治を破り、また阿津賀志山に藤原国衡の軍と戦い、その時の功により信夫、伊達の地を賜わり伊達を称した。そして、桑折の西に西山城を築き、そこを代々の本居城とした。そのため桑折には人々が集まり、この地域の中心地になった。その後伊達氏は、十五代晴宗のときに山形の米沢に本拠城を移し西山城は廃城となった。
江戸時代に入ってからは桑折の領主は何度か変わったが、貞享4年(1687)に幕府領となりこの地には代官が置かれ、奥州街道の宿場町としても整備された。桑折宿で奥州街道と羽州街道が分岐し、阿武隈川の舟運河岸もある交通の要衝だった。奥州、羽州の街道を南下してきた弘前、秋田、新庄、山形、南部、仙台などの大名たち18諸侯はここ桑折宿で休泊した。また日本三大銀山の一つといわれた半田銀山が発見されたこともあり、大変栄えた宿場であったという。