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福島県川俣町東福沢

 

川俣は、伊達郡の東南に位置し、相馬と安達の郡境に接しており、道路の集中するこの地は、軍事上きわめて重要な地域だった。

河俣城は、本郭、二の郭の内城部と、三の郭や、南、北、西方外縁の外城部で、三重に守りを固める構造の広大で堅固な山城である。比高100m程の南北に走る尾根上に、大小の郭が、それぞれ空堀で区切られ配されている。

天正年間(1573~91)には、伊達氏の家臣の桜田右兵衛尉資親が在城し国境警備にあたった。桜田氏は本来、北方2kmほどのところにある城ノ倉城(河股古城)をその拠点としていたが、この城は伊達政宗による四本松侵攻の拠点として桜田氏が整備したものと思われ、天正13年(1585)、伊達政宗が小手森城を攻めるとき、この城に本陣を置いた。

その後、天正18年(1590)の奥州仕置きにより、伊達氏はこの地域から追われ、岩出山に移り、この河股城は蒲生氏、その後は上杉氏が領するところとなり、その支城として維持されていたと思われる。

慶長5年(1600)、関ヶ原合戦に際して、伊達政宗は旧領を奪還するための軍事行動を開始し、白石城を攻撃するとともに、これに連携して、桜田資親の子で、当時駒ヶ嶺城主であった桜田基親は、河股城を攻撃し奪取し、この城に篭って上杉勢を釘付けにした。このためこの地の上杉勢は、白石救援に赴くことがままならず、白石城は落城し政宗の手に帰した。

桜田基親は、元和元年(1615)、伊達政宗の長子の秀宗が、伊予宇和島に10万石で入部するのに侍大将として従い、その後この城も、元和の一国一城令により廃城となったものと思われる。