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伊達政宗は、力量、打ち物にすぐれたものを選び黒脛巾組という忍者集団を創設したとされる。百姓出身であっても足軽程度の下級の侍のような扱いとした。組織構成は30人から50人を1組とし、それぞれの土地に詳しい古くからの土着氏族の出身で武辺の者をそれぞれの「組頭」とした。

古文書によれば、伊賀や甲賀の忍者のような武力行為は確認できず、「所々方々へ分置き。或は商人・山臥(山伏)・行者等に身をまぎれて。連々入魂の者も出来れば、其便宜を以て密事をも聞出し。其時々これを密通す。依之政宗には疾く此事を聞へけれども外に知る人なし」とあり、もっぱら政宗直属の忍者集団として、情報収集や流言飛語など、諜報活動に関わったようだ。

戦国期が終わり、江戸時代に入り、伊達政宗は仙台城を築き、仙台城の東側に城下町を造った。榴ヶ岡から仙台城の大手にまっすぐ伸びる大手道は、城下の中央部で、南町、国分町を連ねる奥州街道の幹線と交差していた。この交差点四隅の建物は、藩の手で造営され、銃眼と矢狭間とを設けた二階建ての城郭式楼櫓建築であった。本瓦葺入母屋造りで屋根の各大棟には蛟竜を高く上げ、仙台城正面の防禦に備えたばかりでなく、城下中心街の偉容を大きく誇ったものであった。この地は、「芭蕉の辻」と呼ばれ、現在も仙台の経済の中心地となっている。

名前の由来としては諸説あるが、一説には伊達政宗が芭蕉という名の忍者を重く用いて、密かに敵方の動静を探り、作戦計画の上に多大な利益を得た。政宗は仙台に治府を定め城下町を整備すると、芭蕉を召し出し、これまでの功績に報いるため、辻の建物を芭蕉に与えたという。

伊達政宗の時代に、芭蕉らの忍者が活躍したのは、南奥羽をめぐり佐竹氏や葦名氏、岩城氏や二階堂氏らとの情報戦と推測できる。中でも、天正13年(1585)11月の人取橋の戦いで、政宗は佐竹義重を中心とした反伊達連合と乾坤一擲の戦いを行った。

二本松の畠山義継に父輝宗を討たれた伊達政宗は、二本松城を攻めた。この伊達の二本松攻めを知った常陸の佐竹氏や、会津の葦名氏は、伊達氏のこれ以上の南下を食い止めるために、南奥羽の武将らと連合し、須賀川に出陣した。これを知った政宗は、本宮に出陣した。このときの兵力は、畠山、佐竹、葦名らの連合軍が約3万、伊達勢は約8千であった。

佐竹、葦名らの連合軍は、伊達本陣に襲い掛かり、瀬戸川周辺で激突した。この戦いでは、政宗自身も槍を持ち、連合軍相手に一進一退の攻防を繰り返した。伊達勢4千は、老将茂庭左月を主将とし人取橋付近で頑強に戦ったが、数に圧倒する連合軍は次第に優勢となったが、日没となり、双方が一旦兵を退き、決戦は翌日に持ち越された。

この時期、佐竹氏は関東で北条氏と対立しており、北条方の江戸氏や里見氏と小競り合いを繰り返していた。このような状況下で、連合軍の盟主である佐竹義重の下に、佐竹義重の軍師が家臣に刺殺され、江戸氏と里見氏の軍勢が常陸に侵攻してきたという知らせがもたらされた。伊達政宗は北条氏と気脈を通じており、佐竹氏は関東勢と伊達勢との挟み撃ちにあってしまう危険性も考えたのだろう、佐竹勢は夜明け前に兵をまとめて常陸へ撤退した。これにより盟主を欠いた連合軍は統率を失い、それぞれに引き上げた。

この佐竹勢の撤退には、伊達の忍者集団の黒脛巾組による情報戦があったという説がある。豊臣秀吉の小田原征討前夜ともいえるこの時期、北条氏と誼を通じていた伊達政宗は、関東方面の情報収集のために、多くの忍者集団を送り込んでいただろう。その忍者集団が、伊達と佐竹の一大決戦で、佐竹の背後で情報戦を行ったのだろう。

また、石川氏や白河氏などは、伊達氏の親族でもあり、反伊達同盟の結束も固いとは言えず、「境目の諸将逆心して伊達の人数を引入ると云出し、又白河・石川の陣中にては、会津・佐竹疑心おこり、此陣へ押よするなどと誰云ともなく私語立て、陣中静かならず」とあり、連合軍は混乱した。

これらの忍者集団の実態は、その性格上定かではない。わずかに柳原戸兵衛・世瀬蔵人などの名が伝えられるが、武士ではないと思われ、その所領や、その後の詳細は不明である。それでも「芭蕉の辻」に名を残す「芭蕉」については、後日の消息がわずかに残されている。

伝承によれば、「芭蕉は城下の雑踏を嫌い、去って名取郡増田の近郊に居住して布袋軒と号した」とされるが、芭蕉の辻周辺は、大町衆や国分衆などの譜代衆が利権を得ていたと考えられる。足軽程度の身分の芭蕉ら忍者集団は、伊達政宗の死後、普代衆に遠慮をして、名取増田に退いたと思われる。

名取に退いたのちの芭蕉は、布袋軒を号し、虚無僧寺を建立した。これは、ときの仙台藩も、芭蕉らの忍者集団による諜報活動の重要性を認め、芭蕉を仙台藩の虚無僧支配としたのだろう。この忍者集団は、その後の伊達騒動での情報収集に活躍したとも推測できる。

また、増田の第六天神社の棟札に、延享5年(1748)大施主として九代布袋芭蕉の名があり、また、虚無山布袋軒と名乗ることを許されており、増田の地で虚無僧寺を維持し、必要に応じ情報活動をしていたのかもしれない。

この虚無僧寺は、明治期まで存在したようで、恐らくは戊辰戦争においても、仙台藩の指示により一定の諜報活動をしたのかもしれない。しかし戦後、仙台藩の庇護もなくなり、寺も失われたと考えられる。

後年、この地を流れる増田川の護岸に、寺の墓石が使われているのが発見され、祟りを恐れた住民たちにより寺跡の地の一角に移され供養されている。