2018/03/11
3月11日には、毎年、東日本大震災の慰霊のために、また復興の状況も確認したく、取材に出かけている。今年は3月11日夜、一気にいわき市の塩屋崎まで走り、翌日北上し、原発被害が大きかった浜通りを、できる限りまわるつもりだった。
福島県の浜通りは、あの大震災の2ヶ月ほど前、のんびりと各所の伝説などを取材した。それがあの大震災で、更には原発事故で、名も知らぬお世話になった方々の行方も知れない。何度か被害状況や復興状況を確認しようと出かけたが、南相馬市以南、いわき市以北には立ち入ることも出来なかった。今回は、とにもかくにも国道6号線は開通したので、いわき市から行くことができる範囲で慰霊を行い、復興の状況を確認したいと思っていた。
いわき市の塩屋崎灯台のある薄磯海岸で日の出を撮影した。この地では、120人ほどが津波の犠牲になったはずだ。慰霊碑を探したが見つけられず、上る朝日に手を合わせた。薄磯海岸は、有名な海水浴場で、広々とした砂浜が広がっていたが、現在はその砂浜にせり出すような形で防潮堤が築かれていた。それも景観を損なわないように、防潮堤そのものを公園化している。
いわき市内を少し回ってみた。いわき市は、私の住む仙台と同様、被災地とはいえ、市街地は津波の被害はなく、地震の揺れで壊れた建物などの多くは、修築、または建て替えされたのだろう。表面的には、すでに復興が完了しているかに見える。それでも、各所に原発関連労働者の宿舎らしい建物が見られ、原発被害最前線の町の様子がうかがえた。
国道6号線を北上し、楢葉町の天神岬公園に向かった。途中、「道の駅ならは」に立ち寄った。この地は、原発被害への対応での、最前線基地になった。かつてはここでは、地域の物産を並べ、また入浴施設などもあったが、現在は、無人の地域のための防犯やパトロールのためだろう、臨時の警察署ができていた。道の駅の機能としては駐車場があるだけだった。
天神岬は行くことができるようで、国道から車を東に走らせた。天神岬は標高40mほどの高台にあり、弥生時代の遺跡や、中世の城跡があり、スポーツ公園として整備されている。この楢葉町は、2017年9月に避難指示が解除され、現在は住民が戻り始めている。天神岬公園は、事故のあった福島第一原発から南に17kmほどの位置にあり、全町避難になった。震災による直接の犠牲者は13人だったが、関連死は121人と圧倒的に多いのが特徴だ。もちろんそれは、原発被害による生活手段の喪失や、生活環境の変化から来ているのだろう。
この先、大熊町や双葉町は帰還困難地域になっており、国道6号線を除き、今も立ち入り禁止になっているはずだ。正直、この先、それらの無人の地域に向かって進むのは気が重い。しかし、それがどうしても伝えたいことなのだ。光にあふれている公園の展望台から、海岸線に向かい手を合わせ、復興記念碑に手を合わせ、富岡町に向かった。
富岡町も全町避難だったが、2017年3月に避難指示が解除されている。2年ほど前に訪れたときには、商店街は全くの無人で、崩れた建物は震災時そのままで、歩道には雑草がはびこり、荒涼としていた。今回も人に出会うことはなかったが、歩道の雑草がなくなっている。崩れた建物が取り除かれ空き地になっている。驚いたことに古い建物に足場がかけられ、修築されているようだ。住民の一部が戻ってきているのだろう。
しかし喜びもここまでだった。国道6号線を北上し、大熊町に入りすぐに「帰還困難区域」の看板が立っている。国道6号線から脇道には入れない。国道沿いのパチンコ屋や飲食店などは、もちろん無人で、震災時そのままの姿で、その後の7年の無人の歳月を、舗装面を破って繁茂した駐車場の雑草や、看板にからむツタに見せている。そのまま北上し大熊町に入る。
大熊町の街中を通る国道6号線は、かつての浜街道そのもので、道幅はせまく、古い集落の中を通っている。その両側に並ぶ家々の敷地の入口すべては、江戸時代の竹矢来のような金属製のバリケードで封鎖されている。胸がギュッと潰されるような衝撃を受けた。車を小さなスペースに停めて写真を撮った。
多くの家々は、震災時の被害をそのまま残しており、雑草が伸びツタがからんでいる。国道は、恐らく原発関連車両や復興関連車両だろうが、思った以上に通行量は多い。しかしながら、もちろん住む者も道を歩く者もだれもいない。時折、パトロールの警察車両が通り、こちらを胡散臭そうに眺めて通り過ぎて行く。家々のバリケードは、もちろん防犯の意味があるのだろうが、それでも、この地域すべてが、社会から無かったことにされているような印象を受けた。
この地域にも日は照り風は吹き、草花も咲くのだろうが、人の姿はなく、人々の声もなく、この地域の生活すべてが奪われている。この地域では、津波の被害はなかっただろう。建物の被害も、他の地域に比べて大きいものではない。しかし、この地域にかつての人々の生活が戻ることはないのだろう。
北となりの双葉町にかけて、慰霊碑などがあれば、せめて手を合わせたいものと思ったが、見つけることはできなかった。考えれば、この地の人々は散り散りになり、コミュニティは分断され、戻るに戻れず、祈りを共有することもできないのだ。この地は、今回の東日本大震災での、復興すらできない、最大の被災地なのだ。
もはや限界だった。福島第一原発の入り口を見ないようにして通り過ぎ、双葉町の街並みもスルーし、帰還困難区域から早く出て、復興の形が見える地に出たかった。浪江町に入り、海岸に向かった。なんでも良かった。海岸に出れば防潮堤などの復興の状況が見えるだろうと言うだけだった。
海岸に出て、海の青さと、復興工事の現場を見て少し落ち着き写真に収めた。その近くに除染土の集積場があった。黒い防水の袋に納められ、また黒い防水シートに覆われて一面に広がる集積場は、ある意味で、この地域一帯の斎場にも思えた。写真を撮影し、手を合わせた。
当たり前の生活にやたら出会いたかった。暮れ始めたこの地を後にして、夕暮れの南相馬市で、ようやく当たり前に生活者が行き交う姿を見た。