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現在の宮城県桃生郡一帯は、中世時期には山内首藤氏が支配していた。

山内首藤氏はもとは源頼義の郎党の藤原資通を祖とし、その子孫が相模こく山内庄に本拠を置き、山内首藤と称した。源平時代は源氏に仕えて、「平治の乱」には源氏方として戦っている。源頼朝挙兵の際には平家方についたものの、その後は源頼朝に従い、義経追討などに功をたて、伊勢・伊賀など各所に領地を賜った。

山内首藤氏は奥州征伐にも出陣し、戦後の論功行賞で「陸奥国桃生郡内吉野村」に領地を賜った。桃生郡では、その詳細は不明であるが、大森城を本拠とし、桃生半郡の郡司として、永井・太田・相野谷・七尾・福地一帯を所管したようだ。

大森城は、大森集落背後の館山に築かれ、比高約55m、東西約600m、南北約300mに及ぶ巨大な山城である。館山中央の最高所に本郭が置かれ、西に二の郭、東に三の郭、東の郭、北に北の郭を配し、南は断崖となって大森集落へと落ちている。往時は北上川が館山の麓まで流入していたと考えられており、その流れを防衛の重点としていた。

山内首藤氏嫡流は鎌倉に住して幕府に出仕し、元弘の乱、南北朝の争乱期を経て鎌倉府に仕えた。しかし永享10年(1438)、永享の乱で関東公方足利持氏が幕府軍の追討にあって自害し鎌倉府が滅亡すると、持氏の側近であった宗通・俊高らは桃生の領地に下り逼塞した。

この時期にこの地の最大勢力は葛西氏だったが、その葛西氏も一族の内訌に苦慮していた。そして、葛西氏には伊達氏から宗清が養子として入り、伊達氏の干渉を受けるようになった。一族・家臣にはこれに反対するものも多く、葛西家中だけではなく、桃生深谷の長江氏、登米の鬼越氏、そして山内首藤氏らが同調し葛西領内は混乱した。

葛西宗清は、家中の混乱の背後には、山内首藤貞通の存在があるためと判断し、山内首藤氏を牽制し、山内一族と、葛西氏の一族との間に確執が繰り返されるようになった。

永正8年(1511)、桃生郡と牡鹿郡の境のことで、山内首藤氏と葛西氏の間で紛争が生じた。葛西宗清の山内首藤氏に対する怒りは爆発し、山内首藤氏と葛西氏の間に戦端が切られた。ここの「永正の合戦」と呼ばれる合戦は、桃生郡内の合戦としては最大級のものであった。

葛西宗清は諸軍を率いて牡鹿郡の湊に浮かぶ山内首藤方の軍船に攻撃を加え、これを追って本吉郡の戸倉、小滝付近に上陸し、山内首藤方の北面を守る砦を落とし、北面の山内首藤方の援軍を打ち破り、首藤氏のこもる大森城と七尾城を攻めた。

葛西方として、江刺・薄衣・黄海氏らがぞくぞくと石巻に集結し、さらに宗清の子重清が牡鹿の地から大森城に向かい、葛西軍の一方的勝利に終わるかにみえた。しかし、地勢を熟知している山内首藤方は、夜戦を仕掛け、軽卒百余人を率いて葛西陣に攻撃を加え、この攻撃に葛西軍は散を乱して潰走し、四分五裂の散々な敗北となった。

その後、葛西軍は雪辱を期し再度行動を起した。先の敗戦にこりて、大森・七尾両城のまわりを固め、山内軍の機動作戦を封じた。北上川流域に多くの属城を配した山内首藤氏であったが、身動きできない状態となった。ついに山内首藤氏の籠城軍は餓死寸前に追いやられ、貞通は和解を乞うたが宗清はそれを許さず、まず大森城が落城し、七尾城も永正12年(1511)に落城した。

貞通は桃生の内十郷を割いて葛西の軍門に降り、高野山に入り、読経三昧の生活を送り大永2年(1522)に死去したと伝えられる。