スポンサーリンク

③悪魔に魂を売った紅衛兵の狂気

紅衛兵の狂気の矛先は、権力者のみならず、市井の住民や家族にも及んでいった。ある学校では校長や教員がその標的にされた。校長は、いちばん高い三角帽子がかぶせられ、いちばん重いフダがかけられた。頭は虎刈りにされ、顔には墨を塗りつけられた。紅衛兵は入れ替わり立ち代わり延々と校長批判を続け、その批判演説で狂気をたかぶらせていった。

何人かの生徒は興奮し、校長を棒でたたきのめし、足で踏みつけた。それだけではあきたらず、校長の首に縄をくくりつけ、台の下に引きずり下ろし、犬のように吠えさせ、犬のように運動場を這い回らせた。紅衛兵は自分たちの教師たちを軟禁し、毎日、10時間以上の重労働を課した。わずかな時間も休むことを許されず、少しでも動作が鈍いと、すぐさま木刀や革靴で殴りつけた。夜になれば、夜通し、教師たちへの尋問とリンチが行われた。

地主や資本家という搾取階級の肩書きをつけられた人々はさらに悲惨だった。手に重い物を持たされた彼らは、膝を剥き出しにしたまま、石炭ガラやガラスの破片の上にひざまずき、少しでも動けば殴る蹴るの憂き目にあった。袋だたきにあうのはまだましな方で、ひどいときは、その場で殴り殺された。

凶暴だったのは、男子ばかりではない。女子紅衛兵も凶暴だった。サクランボのような可愛い唇をした、女子大生や女子中学生が、粗暴な言葉を吐き、じつに凶暴だった。北京での家宅捜索では、「地主婆あ」とされた老女を皮ベルトで殴り殺された。15歳の女子紅衛兵が、「搾取階級」とされた女性の口に指を突っ込み、力まかせに引っ張り、相手がうめき声を上げなかったことからヒステリー状態になった女子紅衛兵は、暴力行為をやめず、被害者の血で手を真っ赤に染めた。

ある学校では、紅衛兵が校内にトーチカを築き、鉄条網をめぐらして、「労働改造所」と称していた。実質は私設の刑務所で、同級生を含む、おおぜいの「搾取階級」を監禁し、連日のように拷問にかけた。じつにさまざまな罪状が用意され、また暴行のすさまじさで、北京中にその名は知れ渡った。彼らは、数人を殴り殺すと、鮮血にまみれた手で、犠牲者たちの血で、壁に「赤色テロ万歳!」と大書した。

共産党の創立記念日、国慶節、元旦などの祝日には、中国各地で群集を集めて、紅衛兵による反革命分子公開処刑大会が行われた。とはいっても、虐殺に次ぐ虐殺が繰り返されていたので、「反革命分子」はほとんど存在していなかった。にもかかわらず紅衛兵は競うようにして「反革命分子」をでっちあげていった。

毛沢東語録を不注意で汚してしまったり、毛沢東の顔写真を載せた新聞紙を使って野菜を包んだりするだけで、反革命分子として紅衛兵に殺害された。また紅衛兵自身の両親が、紅衛兵が跋扈する状況への恐怖を話していたとし、子供が密告し、翌日には連行され結局残酷に処刑されたこともあった。

紅衛兵の攻撃は、文化遺産にも向けられた。毛沢東は「実権派」のみならず、「思想・文化・風俗・習慣面での四旧の打破」を指示しており、それを受けて紅衛兵は文化遺産を徹底的に破壊した。後漢時代に建立され、文革当時、中国最古の仏教寺院であった洛陽郊外の白馬寺、及び、後漢時代から残る貴重な文物の数々はことごとく破壊された。

山西省代県にある天台寺の、1600年前に作られた彫刻や壁画も破壊された。四川省成都市にあった世界最古の城壁での蜀時代の城壁も破壊された。ミン王朝皇帝の万暦帝の墳墓は暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられて焼却された。中国屈指の書道家、王羲之が書き残した書も破壊された。チベットにあった6千ヶ所の仏教寺院はことごとく破壊され、文化大革命が終わったときに残っていたのはわずか8ヶ所だけだった。

④紅衛兵同士の「武闘」が始まった

紅衛兵の狂気は、無実の人たちを虐殺しても飽き足らず、ついには分裂し、互いに相手を、反革命分子と罵って激しい殺し合いを行った。1967年の3月から6月にかけて、江西、青海、浙江、湖北、山西、河南、安徽、内モンゴル、陝西、復建、広東、寧夏などで、凄まじい殺し合いが行われた。殺し合いは、紅衛兵、労働者、農民、さらには、軍隊をも巻き込み展開された。

重慶では、1967年2月に造反派は二派に分裂し、共に相手側を毛主席と毛沢東思想の敵とみなした。始めは槍や刀などで殺し合いを始めたが、6月頃には自動小銃が使われ、それ以後は軍事工場から武器を持ち出し、8月には両派ともに戦車、装甲車、迫撃砲、高射砲、快速艇などで武装し、ミサイル以外のあらゆる武器を使用し殺し合い、大量の死者が発生し、巻き添えになった市民も多かった

これはまさに戦争だった。北京の昌平県では、4月末から5月のはじめにかけて、5000人の人びとの乱闘がおこり、243名の死傷者がでた。徐州では、5月末から6月はじめにかけての「武闘」事件で、機関車などが21両も爆破され、千数百名の負傷者、行方不明者がでたと伝えられる。また6月はじめ重慶の武闘事件では、死者が400名にものぼった。長沙では420名、湖南省丹江では、死傷者2000名にのぼる「武闘」がおこったとつたえられる。

この時期の文化大革命は、悪魔の所業ともいえる、狂気に陥っていた。「反革命的」と烙印を押した者に対しては、残虐に、大量に殺すことが「革命的」だった。そのためには、人間がそこまで出来るのかと思われる残虐な手段も躊躇なくとられた。ある者は生きたまま陰部をえぐられ、肉をそがれ、腹を裂かれ、「人肉宴会」と称して食べられた。これ以上はとうてい口にすることもおぞましいことが「革命」の名のもとに平然と行われた。

最終的には、毛沢東の父が富農だったことを批判する壁新聞まで出現しはじめた。もはや毛沢東すら紅衛兵をコントロールできない事は明らかだった。毛沢東は人民解放軍を投入し、各地に革命委員会を樹立し秩序再建を図り、1968年7月には、紅衛兵運動の指導者を呼んで運動の停止を命じた。

そして上山下郷運動を主唱し、都市の紅衛兵を地方農村に送りこみ収拾を図った。この政策は、「農民と労働者を同盟させる」という毛沢東思想を強化し、青年を農村体験で思想教育し、都市と農村の格差も解消するというもので、青年が修正主義に向かうのを防止し、都市で深刻になってきた失業問題を一気に解決するほか、無職の青少年の勢力が政治的脅威になる前に彼らを都市から追放するというもので、ていの良いお払い箱だった。

当時の農村は、大躍進運動の影響もあり、非常に貧しく、多くは西南の密林地域や、東北の極寒地域に放り込まれ、それは強制労働ともいえるものだった。もちろん電気などなく、鍬と鉈と毛沢東選集だけを現地の事務所で受け取り、掘っ立て小屋で他の下放者と一緒に暮らし、毎日延々と密林の木を切り倒した。過酷な労働で病気になる者も多く、作業中に木に潰されて亡くなった者も数多く、発狂する者までもいた。結局、この下放者の多くは、二度と故郷に戻ることはできなかった。