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1965年、当時の中国は、大躍進政策の失敗による混乱の中にあった。大躍進政策は数千万人の餓死者を出し、毛沢東は自己批判を余儀なくされ、第一線からは引いていたが、そのカリスマ性は依然として強かった。その年の11月、姚文元は上海の新聞『文匯報』に、京劇の『海瑞罷官』が、大躍進政策を批判して失脚した彭徳懐を暗に弁護し、毛沢東を非難したものであると批判し、文化大革命の口火をきった。

1966年5月、党中央政治局拡大会議は「五一六通知」を出し、『海瑞罷官』を擁護したとみなされた彭真らを批判し、文化革命小組を作り、中央や地方の代表者は資本階級を代表する人物であるとして、これらを攻撃することを指示した。同じ月、北京大学構内に、党北京大学委員会の指導部を批判する内容の壁新聞が掲示された。

この時期に実権を握っていた劉少奇国家主席や鄧小平総書記は、部分的に市場経済を導入し始め、一応の成果を上げ始めていた。しかし毛沢東はこの政策を、共産主義を資本主義的に修正するものとして批判していた。毛沢東は、「中国革命は、修正主義によって失敗の危機にある。修正主義者を批判打倒せよ」と主張し、腹心の林彪副主席は、民衆や紅衛兵に「反革命勢力」の批判や打倒を扇動した。

紅衛兵は、同年5月、日本の高校に相当する清華大学附属中学の学生たちが、毛沢東の復権を支持し組織した。無知な10代の少年少女が続々と加入してまたたく間に拡大し、6月には「紅衛兵」「紅旗」「東風」などの秘密学生組織が相次いで設立した。労働者、貧農下層中農、革命幹部、革命軍人、革命烈士、およびその子女は「紅五類」とされ紅衛兵団体の加入認証を得て紅衛兵となったが、対して地主、富豪、反動分子、悪質分子、右派分子、およびその子女は「黒五類」とされ、出身のみの理由で吊るし上げの対象となった。

同年6月、『人民日報』は「横掃一切牛鬼蛇神」(一切の牛鬼蛇神を撲滅せよ)という社説を発表した。この社説の中で「人民を毒する旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を徹底的に除かねばならない」と主張した。この社説を反映して、各地に「牛棚」(牛小屋)と呼ばれる私刑施設が作られた。8月には、中全会で「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」で文化大革命の定義が正式に明らかにされた。このとき毛沢東は、「司令部を砲撃せよ」という論文を人民日報に発表し、これは「党の内部に存在しているブルジョア階級の司令部」として暗に劉少奇を批判したもので、紅衛兵らは行動の裏付けを得て、文化大革命は燎原の火のように広がった。

北京の紅衛兵は「破四旧」(旧い思想・文化・風俗・習慣の打破)を叫んで街頭へ繰り出し、劉少奇や鄧小平に代表される実権派、反革命分子を『毛主席語録』を掲げて攻撃した。ジーンズをはいた若者を取り囲んで服を切り刻んだり、老舗の商店や貴重な文化財を片っぱしから破壊し、果ては多くの人々に暴行を加え死傷させた。同年8月、毛沢東は紅衛兵に書簡を送り、「造反有理」として支持を表明、また中国共産党中央委員会全体会議は、「プロレタリア文化大革命に関する決定」で、紅衛兵運動を公認した。また毛沢東は、全国から上京してきた紅衛兵延べ1000万人と北京の天安門広場で会見し、紅衛兵運動は全国に拡大する。

②、彭徳懐、劉少奇らは、長期の拷問で恥辱の中殺された

紅衛兵は、「造反有理」「革命無罪」を叫び、毛沢東を背景として官僚や党幹部への攻撃を正当化した。この「造反有理」は、毛沢東の「マルクス主義の道理は、造反有理の一言に尽きる」と言ったことに由来する。同時期の日本での大学紛争期において、全共闘や社会主義学生同盟(社学同)や共産主義者同盟(共産同)内のML派のスローガンとして使用されたことで知られ、東京大学の正門には毛沢東の肖像画とともにこの標語が掲げられ、日本の新左翼が自らの暴動やテロ活動を正当化するスローガンとして使われていた。

紅衛兵は熱狂し、劉少奇や鄧小平ら実権派や、その支持者と見なされた中国共産党の幹部、知識人、旧地主の子孫など、反革命分子と定義された層はすべて熱狂した紅衛兵の攻撃と迫害の対象となり、組織的、暴力的な吊るし上げが中国全土で横行した。「批闘大会」と呼ばれる吊し上げが連日のように行われ、実権派や反革命分子とされた人々は会場で壇上に引き出され、三角帽子をかぶらされ、殴打され、自己批判が強要された。

真っ先に血祭りに挙げられたのは、毛沢東の大躍進政策を批判した彭徳懐だった。紅衛兵からの彭徳懐に対する暴行は凄まじいものだった。紅衛兵により成都から北京に連行され、1967年7月の批闘会では、7度地面に叩きつけられ肋骨を2本折られ、後遺症で下半身不随となった。その後、江青の医療服従専案の監督下に置かれ、監禁病室で全ての窓を新聞紙に覆われたまま約8年間を過ごした。

1974年9月には直腸癌と診断されたが、適正な治療は受けられず、鎮痛剤の注射も拒否され、下血と血便にまみれた状態のままのベッドとシーツに何日も放置されるなど、拷問に近いものだったという。死の直前に塞がれた窓を開けて最後に空を一目見せてほしいと嘆願したがこれも拒否され、同年11月に没した。

劉少奇は「資本主義の道を歩む実権派」の中心とされ、毛沢東によって打倒の標的とされた。毛沢東の「司令部を砲撃せよ」の「司令部」は、劉少奇を示すものとだれもが察知した。1967年4月になると、劉少奇は幾度も大衆の前での批判大会に連れ出され、夫人とともに何度も執拗な吊し上げを受けた。7月には、自宅が造反派に襲撃され、造反派の批判大会で2時間余りにわたって暴行を受け、批判を浴び、自宅に幽閉され、夫人は逮捕され、子供は自宅から追い出された。その後スパイ行為がでっち上げられ、1968年10月の中全会において、劉を「党内に潜んでいた敵の回し者、裏切り者、労働貴族」として永久に中国共産党から除名され失脚した。

劉は病の床に就くが、散髪、入浴ともに許されず、執拗な暴行や暴言を受けた。部屋には劉を非難するスローガンを記した紙が壁中に貼り付けられていた。やがて劉は危篤に陥ったが、党中央は迅速に対応して治療を行い一命を取り留めた。だがそれは、生きているうちに劉少奇を党から除名して、恥辱を与えよという江青の指示によるものだった。党からの除名処分は、劉の誕生日にラジオで放送され、劉はそれを聞くことを強要された。それ以降、劉は言葉を発しなくなった。

劉はいくつかの薬を常用していたが、それも取り上げられた。多くの歯は抜け落ち、食事や服を着るのにも非常に長い時間がかかった。1968年夏に高熱を発し、その後はベッドに横たわる状態となったが、衣服の取替えや排泄物の処理などもされない状態だった。1969年10月に河南省に移送されてからは、寝台にしばりつけられて身動きができぬまま、暖房もないコンクリートむき出しの倉庫部屋に幽閉された。地元の医師が安楽死を求めたことに対し、上部機関は「ありふれた肺炎治療薬」のみを投与するよう指示し、それもかなえられなかった。病状が好転するはずもなく、同年11月に没した。白布で全身を包まれた遺体は、「劇症伝染病患者」という扱いで火葬に付された。