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⑤権力中枢の混乱、林彪失脚と周恩来の死

文化大革命が一段落し、毛沢東の復権がなった1969年4月、この時期に唯一の中国共産党副主席だった林彪が、9全大会で毛沢東の後継者として公式に認定され、林彪の政治的立場は大幅に強化された。しかし文化大革命に際して毛沢東と対立した劉少奇の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意せず、毛沢東に野心を疑われることになる。

その後、林彪は毛と対立し、1971年9月、毛沢東の暗殺計画が発覚したとされる事件が起き、飛行機で国外逃亡を試みて事故死した。これ以降、毛沢東は文化大革命の行き過ぎを是正すべく、追放された鄧小平を党中央部に呼び戻して周恩来と協力して国力の復興を任せたが、江青ら文革の強硬派「四人組」と鄧小平、周恩来との対立がおこり、政治情勢は依然として不安定であった。

周恩来は、温厚でバランス感覚にすぐれた政治家だったとされる。文化大革命中も毛沢東に従い続け、毛沢東の路線に従い、毎日紅衛兵を接見して指示を与えた。しかしその裏では、文革の「火消し屋」として紅衛兵の横暴を抑えようともしていた。紅衛兵が北京の道路を「右派に反対する」と言う理由で左側通行に変えさせた為、交通が大混乱に陥った時も、周恩来が介入してやめさせた。また故宮を紅衛兵が破壊しようとした際にも、軍隊を派遣し文化遺産を保護した。更に出来うる限り走資派のレッテルを張られた多くの党幹部を保護しようとも努めた。しかし、毛沢東に従う限り、これらの行動には限界があり、全体として文革の嵐を止めることは出来なかった。

原理的な文革派で、後に「四人組」の一人とされた、毛沢東の妻の江青は、文革を穏健な方向に向けようとする周恩来を批判していた。江青はその憎悪を、周恩来の養女で女優の孫維世に向けた。その憎悪は、江青が上海で女優をしていた時、不遇だった自分に比べ脚光を浴びていたからとも、「延安四大美女」のひとり、或いは「紅色公主」と呼ばれていた彼女に、毛沢東が関係を迫った事を知っての嫉妬だったとも言われる。江青のメイで逮捕された孫維世は、北京獄中で拷問を受けて死亡した。遺体には大型の釘が打ち込まれていた頭頂部など拷問の痕跡が発見され、これを見た周恩来は検視を要求したが、「遺体はすぐに火葬する、」と告げられ、周恩来は孫維世が「ソ連修正主義者のスパイ、」だったという逮捕状にサインした。

文革の混乱を収拾しようとした鄧小平や周恩来らとは別に、江青、張春橋、ヨウブンゲン、オウコウブンら、文化大革命の原理主義的勢力も伸張し、「四人組」と呼ばれた。四人組は、文革路線を踏襲して、能力給制や、余剰生産物の個人売買を認める政策を、激しく批判して、政敵を迫害追放した。

しかし周恩来は、林彪事件後の混乱を収め、1972年の、ニクソン大統領の中国訪問では、世界の注目を浴び、「周恩来外交」として国際的評価は日増しに高まっていった。しかしこれらは毛沢東の嫉妬と疑惑を招くことになり、1973年7月「周の談話は見るにたえぬ。…将来必ず修正主義が出るだろう」と述べ、周恩来への批判を強めて行った。生真面目な周恩来は、ひたすら忠誠ある態度を取り続けていたが、毛沢東は四人組を用いて牽制したり、周恩来を罷免しようとしたりするなど、対立は深まっていった。

しかし毛沢東は、四人組に対しても必ずしも信を置いていたわけではなく、周恩来や鄧小平に代わる人材もなく、1974年7月には「四人で小さな派閥をつくってはならない」と江青、張春橋らを批判した。周恩来は1975年には国防、農業、工業、科学技術の四分野の革新を目指す「四つの現代化」を提唱し、のちの鄧小平による「改革・開放」の基盤を築いた。

1974年9月の建国25周年記念式典で周恩来は、文革で失脚した人々を特別に呼び寄せ来場者から絶賛された。これは毛沢東にとって格好の攻撃材料となるはずだったが、用心深い周恩来は、乾杯の際にあらかじめ毛沢東を賛美する言葉を述べて非難の矛先をかわした。周恩来に対する中国国民の人気に毛沢東も結局手出しができず、「周の追放をあきらめてないが今は時期が悪い。自覚の薄い国民は周の事を知らぬ。今やると混乱を招く、」と述べて攻撃を止めざるを得なかったという。

この時期、周恩来はすでに膀胱癌に侵されており、それでも休むことなく職務を続けていたが、1976年1月、死去した。遺骨は遺言により飛行機で中国の大地に散布された。これは、四人組によって遺骸が辱められることを恐れたためと言う。その死後、文革によって苦しめられていた民衆が、周恩来を追悼する行動を起こし、これを当局が鎮圧するという第一次天安門事件が起こった。

⑥毛沢東の死と四人組の失脚、文革の終焉

中国国民は、打ち続く文化大革命の混乱に嫌気が差し、文化大革命に一定の距離を置いていた周恩来を尊敬していた。周を孔子になぞらえて批判し、失脚をはかった四人組による「ひりんひこう運動」が国民の支持を集めなかったのも、そこに原因があった。人々は、周と鄧小平を、事態を収拾してくれる人物として歓迎し、四人組に反感を持っていた。

このため、周恩来の死は国内に大きな悲しみをひきおこし、周を評価し四人組を攻撃する壁新聞が出回り始めるなど、文革全盛期にはあり得なかった事態が起こっていた。江青たちはこうした空気に危機感を募らせていた。文化大革命の失敗を気に病んでいた毛沢東は、民衆の周への敬慕が自身への非難となることを懸念し、文革犠牲者の名誉回復を恐れ、江青一派と連携し反撃の機会を与え、鄧小平に距離を置き始めた。

1976年2月、「四人組」のヨウブンゲンは、周恩来の追悼記事を削除させ、代わりに周への攻撃記事を掲載させた。また同時に、清華大学生が周を「最大の走資派」と攻撃したが、それらは中国国民の反感を招くだけだった。同年3月、南京で周恩来の追悼集会と四人組批判の運動がおき、四人組はこれを妨害し隠蔽したが、それは一気に北京に飛び火した。南京から北京行きの列車の車体には人民の決起を呼びかけるスローガンが書かれ、北京市民を勇気づけた。こうして3月末に天安門広場では追悼集会が自然発生的に起こった。参加する市民の数は日を追って増え、無数の花輪、幟、追悼と、四人組批判の詩文などが人民英雄紀念碑に捧げられた。

翌月4日の、中国古来からの死者を弔う日の「清明節」には、2万人近くの群衆が集まった。人々は花輪や詩を捧げるだけでなく、四人組を批判する演説や「インターナショナル」を歌うなど気勢を上げた。数日前から四人組の指示を受けた公安部による取り締まりが始まり、花輪の撤去や街宣車による警告、説得や拘禁などが始まっていたが、それらは逆効果となり、ついには取締りに当たる警官や兵士までもが人々の熱気に感化されて職場を放棄する事態となった。

追い詰められた四人組は党中央を動かし、これを反革命行為ときめつけ実力行使に出る。翌5日夜、広場を包囲した民兵と警官隊が群衆を襲撃した。当局は「この騒動で388人を逮捕し、死者はゼロ、」と発表したが、実際の犠牲者や逮捕者は不明である。事件発生後、四人組のひとりヨウブンゲンは『人民日報』に「反革命政治事件」と報道したが、それはかえって国民の怒りを買い、人民日報本社には、「党の機関紙はファシズムのメガホンになり下がった、」などの抗議文が送りつけられた。四人組の江青は事件の報告を受け興奮し、祝杯をあげ、「わたしはいつでも棍棒で、反対するやつばらをぶちのめしてやるわ、」と高言した。

事件後、四人組の、事実を曲げた報告を聞いた毛沢東は、鄧小平の全ての党職務を解き弾圧を始めた。だが、四人組を批判する北京の人々の動きは中国全土に広がっていった。そのような中の9月、毛沢東が死去した。毛沢東の死の直後から、国防大臣で反文革派のヨウケンエイ(中華人民共和国元帥)から支持を受けた華国鋒らと、文革堅持を主張する四人組の対立が急激に表面化し、上海の文革派民兵による砲台明け渡し要求をきっかけに反文革派は四人組の逮捕を決断し、10月、四人組は北京で逮捕された。

四人組は1977年7月の第10期3中全会で、党籍を永久剥奪された。続く8月の第11回党大会では、1966年以来11年にわたった、文化大革命の終結と四人組の犯罪が認定され、「四人組」は投獄され、江青は服役中に自殺した。また実権派として迫害・追放されていた党員の名誉は回復されて復職した。

犠牲者数については、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議において「文革時の死者40万人、被害者1億人」と推計されている。しかし、文革時の死者数の公式な推計は中国共産党当局の公式資料には存在せず、内外の研究者による調査でも40万人から数千万人と諸説ある。

文化大革命と下放運動により、中国には教育が困難だった世代が存在している。文革期に教育が行われなかった大学生は約100万人余り、高校生は200万人以上に上る。このために人材の欠落がもたらされた。一部の青年はのちに学習して学力を取り戻したが、大部分は中学かそれ以下の教育しか受けていない。紅衛兵世代は、現代中国の失われた世代である。また無知のまま利用され、「革命」の名のもとに人間性を失い、潜在的な残虐性を現実におこなった、鬼畜の世代である。この世代の空白は、彼ら自身にとっての損失であるばかりでなく、中国の近代化にとっても人材の面での大きな痛手となり、その後遺症は今も続いている。

そしてまた、この文革を経験する中で、生き残った中国国民の中で、昔の価値観は破壊され、「勝者が全てを得る。誰かを負かせば英雄になる。金持ちになったなら、それは道理があったということだ」という信条に取って代わった。文革当時、紅衛兵の端にいた習近平は生き残り、それをあたかも実践しているようにも見える。