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南朝方として活躍した八戸南部氏ではあったが、北朝方が優勢になるにつれ、南部氏の中心は次第に三戸南部氏に移りつつあった。八戸南部氏の第8代当主の南部政光は、明徳4年(1393)南北朝合一がされると、甥の長経に八戸の地を譲り、七戸城に移った。

七戸の南東方向およそ4里のところに鶴喰若宮八幡宮がある。この若宮八幡宮がある地を、地元の人々は天皇山と呼んでおり、南北朝時代に潜幸してきたといわれる長慶天皇の伝説を伝え、長慶天皇を祭神として祀っている。

長慶天皇は、南朝の勢力をもりかえそうと、南朝方の八戸南部氏を頼りこの地へ到った。しかし、すでに北朝方の勢力は大きくなっており、この地も安泰の地ではなかった。そのため、一旦津軽地方へ逃れ、後日また、この六戸の地へ戻って来たと伝えられる。

天皇山の中腹にある、桂、檜、銀杏の三種の御神木があり、天高くそびえている。これらの三大木は、ほぼ同時に植えられており「三種の神器」をあらわしているとも伝えられる。この時期にはすでに南北朝合一がなされ、三種の神器も北朝側にわたっていたと思われ、この地のご神木が長慶天皇の心を慰めたのかもしれない。

この若宮八幡宮のある天皇山の山中の谷間の清水は御前水と呼ばれ、天皇の飲み水や調理に使われたものと云われており、天皇はしばらくこの地で暮らしたようだ。この天皇山の東側には駒形神社があり、天皇の愛馬を葬ったと伝えられ、この地が馬産地であることもあり、馬の守護神として長く信仰されている。

また駒形神社から半里ほど北に相坂川が流れており、長慶天皇がこの地を通りがかったとき、一匹の白い犬が川に落ち溺死してしまった。天皇はこれを哀れみ、この地を「犬落瀬の里」と呼んだという。

この地の伝承では、天皇はこの地で没し、古文書によると、天皇崩御の際に七人の従者が殉死し、他の六人は天皇のためにこの若宮八幡宮を建立し、まわりを囲むように館を建て、神社を守ったと伝えられる。しかしそれらは偽装で、その後、北畠氏が治める津軽の地に移ったとする説もある。

また、七戸町には見町観音堂があり、七戸に移った南部政光が、長慶天皇の菩提を弔うために建てたと伝えられる。

堂は、正面3間、側面3間で、宝形造柿葺。度重なる修理によって当初の姿は大分失われてはいるが、技法の上では、かなり古い箇所もいくつか残されており、内部の来迎柱廻りなどに当初の面影をしのぶことができる。

また、絵馬や羽子板などが多く残されており、特に羽子板は、画風は中世風で、柄尻には菊紋を彫刻しているものもあり、室町期を下らない時代のものも多くあり、これらは現存するわが国最古の羽子板といえる。