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会津の奥深い地の西会津町は、仕事の途中、寄り道で訪れるような町ではなく、この日は、会津若松市での仕事の翌日、丸一日をかけてまわるつもりだった。会津地方は、国内でも最も早く仏教が定着した地の一つで、欽明天皇時代(540頃)に仏教が伝えられたとされる。大同2年(807)、慧日寺が徳一上人により開かれたとされる。

この地の如法寺鳥追観音は、徳一上人が、慧日寺の真西に当たるこの地に会津の西方浄土として開創した観音霊場であり、また会津ころり三観音の一として、会津三十三観音番外別格の結願所となっており、この日の主な目的地だった。

朝のさわやかな光の中を会津若松市から会津坂下町を抜けて西会津町の野沢に入った。野沢は、この地方の行政、経済の中心地として発展し、越後街道(会津街道)三大宿場に数えられた地だ。明治期にイギリスの女流紀行家のイザベラバードが、新潟市へ向かう途中、この地を通った。

バードはこの野沢の地について、次のように記している。
ただ一人野沢という小さな町に着くと、人々は好奇心をもって集まってきた。 ここで休息をしてから、私たちは山腹に沿って三マイルほど歩いたが、たいそう愉快であった。 下を流れる急流の向かい側には、すばらしい灰色の断崖がそそり立ち金色の夕陽の中に紫色に染まっている会津の巨峰の眺めは雄大であった。

この地からの山々の眺めは見事であり、それが会津仏教の中で「西方浄土」とされた理由だろう。しかし、それでもこの地は、様々な感情を持った人間の住まいする地で、町はずれの本海壇には、次のような話が伝えられる。

この野沢の宿がほぼ出来上がりつつある頃、本海という行者がこの地を訪れ、高灯籠を掲げ祈祷をしていたら、その火が漏れて宿場が全焼してしまった。怒った宿場の人々は、本海を捕まえ、この地に生き埋めにしてしまった。

その後、宿場の人々は、幾度か宿場を再建しようとしたが、火災が絶えなかった。人々はこれを本海の恨みによるものと考え、陰陽師の言に従い、家ごとに高さ六間の高灯籠を掲げて、本海の霊を慰め、さらに壇を築き、本海を火防鎮火の聖人として祀り、塚祭りが行われるようになった。明和6年(1769)頃は、毎年8月には塚祭りが行われ、相撲、狂言、太神楽、念仏踊りが行われ、近郷近在から老若男女が集まり大変な賑わいだったという。

またこの西会津町は、戊辰会津戦争では越後から会津への侵攻路となり、東西両軍の兵士たちが戦った。当時、東軍の戦死者は、遺体の埋葬は禁止され、打ち捨てられ、鳥獣に食い散らかされ、腐敗し、やがて朽ち果てていった。里人らが見かねて葬ったものだけが、今にその消息を伝えている。

その中に、越後長岡藩士の岡村半四郎と中田良平の墓があるが、両名は、野沢で西軍と遭遇し捕らえられ、後ろ手に縛られたまま、衆人環視の中、見せしめで斬殺された。白鉢巻に紺がすり、白い袴の若い武士だったという。

その他、この地の伝説の地など数ヶ所を回り、如法寺鳥追観音に向かった。如法寺の本尊は、行基作の聖観音像で、行基が、芹沼村の農夫に授けたものと伝えられる。奈良時代、天平8年(736)、行基が会津巡錫の折、この地のとある貧しい農家に宿した。農夫は子にも恵まれず、鳥獣害による不作の貧苦で悲歎に暮れていた。行基はこれを憐れみ、念持仏である一寸八分の聖観音像を授けた。

以来、霊験まことに著しく、観音様は、自ら鳴子の綱をお引きになり、鳥や獣を追ってくれ、豊作に恵まれるようになり、子宝も授かった。農夫はやがて西方浄土・阿弥陀仏の世界に安楽往生が叶った。それ以降、この観音様は「鳥追観音」と呼ばれるようになり信仰を集めるようになったと云う。

その後の大同2年(807)、徳一大師が、会津西方浄土の霊場を開かんと阿賀川の御身が淵を通った時、鳥追観音の「これより南の山に七仏説法の霊場あり。そこへ我を勧請せよ」とのお告げを受けて、現在地に金剛山如法寺を開創し、本尊聖観世音菩薩の胎内に「鳥追観音」を入仏秘され、供養したと伝えられる。

この地の観音堂は、やがてあの世は「西方浄土」へ安楽往生が叶うとの道理を示す為に、観音堂は、東西向拝口・三方開きという独特な構造になっている。東口から入り、北に座し南に」向いている鳥追観音に祈願し、戻らずに西口から出る形になっており、その彼方が「西方浄土」の世界となる。

この観音堂には見事な彫刻が見られ、中でも、左甚五郎の作と伝えられる彫刻があり、その中に「隠し三猿」が刻されている。

「西方浄土」は、仏教における聖域・理想の世界で、十億万仏土先の西方にあり、阿弥陀如来がいるとされる。太陽が東から昇って西に沈むことから、東が過去世界を表し、西が未来世界=死後の世界を表すと考えた。

また、仏教発祥の地のインドの西に、シルクロードの西に反映していたオアシス国家の存在が、伝説化したのではとの説もあるようだ。

西会津町の帰り道、会津の山々をみながら、カール・ブッセの「山のあなた」の詩を思い出した。
山のあなたの 空遠く    「幸」住むと 人のいふ
ああわれひとと 尋めゆきて  涙さしぐみ かへりきぬ
山のあなたに なほ遠く   「幸」住むと 人のいふ