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会津戦争において、慶応4年8月23日、新政府軍は要衝十六橋を突破し、戸ノ口原で白虎隊らを破り、土佐藩の板垣退助らを先頭に若松城下になだれこんだ。会津藩はかねてからの手筈通り、全員登城の命が下り、会津藩の子女たちは次々と城に入っていた。

城下では半鐘が打ち鳴らされ、城に入るものや、城下から避難する人々でごった返し騒然としていたが、西郷邸の一族21人は、このような状況になれば、戦いの足手まといになることを恐れ、自害することを申し合わせていたのだろう。

頼母の妻の千重子は、家を清め、白装束を着し、逆さ屏風を立てて、幼い三女田鶴子(9歳)、四女常盤子(4歳)、五女季子(2歳)を刺し、一族二十一人それぞれ辞世を詠み自刃した。

この直後、新政府軍の薩摩藩士川島信行が西郷邸へ突入した。奥の部屋に進むと、男女が環座で自害していた。しかし見ると、頼母の長女細布子(たいこ16歳)だけが、死に切れず苦しんでいた。川島が近づくと、少女は遠い意識の中で「あなたはお味方か、それとも敵か」と聞いた。息絶え絶えながら、敵ならば、戦おうとするしぐさをしている。

川島が思わず「味方だ、味方だ」と叫ぶと、少女は安堵の表情で「武士の情けを」と懐から短刀を出して介錯を乞うた。信行は苦しむ少女に止めを刺すと、その場で号泣したと伝えられる 。

このときの、西郷千恵子の辞世の句は、
    なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ

その後、西軍を攻撃するのに支障をきたす為、城内から会津兵により火矢が放たれ、西郷邸や近辺の武家屋敷は焼き払われた。


会津藩の女性には中野竹子や山本八重のように戦いの中に身を置いた女性もいた。八重は砲術指南の山本覚馬の妹で、覚馬に無理をいい、砲術の手ほどきを受けていた。

慶応4年8月23日、全員登城の命が下りると、八重は弟の衣装を身にまとい、七装式のスペンサー銃を担いで入城した。入城後は髪を切り、男性に交じっていわば狙撃兵のごとくに戦った。

他の籠城中の女性たちもそれぞれに必死で戦っていた。食事の準備、負傷者の手当てはもちろん、弾丸を作ることも重要な仕事だった。また女性や子供たちは、城内に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄り、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしていた。これで命を落とした者もおり、子供の時の大山捨松も、これで大怪我をした。

城を囲む新政府軍は、この攻城戦では城の南口をわざとあけていたが、結局城内からの逃亡者は一人もいなかったという。


この西郷邸での21人もの婦女子の自害は、会津婦道の鏡というような取り上げられかたをしている反面、ジェンダー平等の視点から、批判的に取り上げている方々もいるようだ。私も、幼い子供たちも巻き込んでのこの「事件」では、何かもっと良い方法があったのではという思いがある。しかし、軍事訓練がなされているわけではなかった当時の女性たちがとることができる道はそう多くはなかっただろう。

この「事件」をジェンダー平等の視点から批判的に接するのは安易すぎるだろう。日本でジェンダー平等の視点から男女平等を語るものの多くは、国や価値観をかけての争いをめぐる戦い、安全保障的な発想が欠落しているのではと思う。

国や価値観をかけての争いが起きたとき、男も女も、国や価値観、そして家族たちを守るために戦うべきであり、それが真の男女平等だろう。しかし女性の場合は、子供を守るという立場がある。その場合はそれが最優先であり、それが国や価値観を守ることになるのだろう。西郷邸での「事件」は、一族すべてが自害することで会津の国や価値観を守ろうとしたのだろうが、私はやはり逃げるべきだったのではないかと考えている

現在、ウクライナではロシアと戦争状態にあり、女性や子供たちは過酷な状況に置かれており、多くの女性や子供たちが国境を越えて避難している。それでも多くの男たちは、自分たちの国や価値観、そして家族のために戦っている。また子供を抱えていない女性たちも、会津の山本八重のように銃を手にして戦い、あるいは歌声を武器にして戦っている女性もいる。

そのような意味で、山本八重も中野竹子も、大山捨松もそして西郷一族も、男に従属するわけでもなく、また男に媚びるわけでもなく、同じ会津婦道のもと、その信じる国や価値観を世の中に広く知らしめたのだろう。