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慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩主松平容保は、京都守護職として江戸幕府を支えて活動してきたため、会津藩は佐幕勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。

会津藩では兵制改革を行い、装備を洋式に改め、軍隊を年齢別に編成していた。中国の神話にある、青龍、白虎、朱雀、玄武の「四神」を年齢別隊の名称にした。18歳から35歳までの「朱雀隊」が、会津藩の主力郡隊であり、36歳から45歳を「青龍隊」とし国境警備を担った。50歳以上を「玄武隊」とし、予備隊とした。16歳から17歳を「白虎隊」として、城内警備と藩主警護にあたった。

白虎隊士の多くは会津藩校日新館の生徒で、剣術、砲術、水泳や中国古典、さらには天文学などさまざまな学問を学び、また武士としての心構えも厳しく叩き込まれていた。隊士の中には、入隊したいがために年齢をさば読みして入隊した隊士もいたらしい。総勢約300人で主に城内の警備と藩主警護にあたり、緊急時には戦闘に参加するという役割を与えられた。

隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、装備していた火器は火縄銃ではなかったがヤーゲル銃などの旧式銃であり、薩長軍のミニエー銃やスナイドル銃に対しては著しく劣っていた。

会津藩では、会津鶴ヶ城を死守すべく、若松への街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な新政府軍に対して劣勢は否めなかった。守りの薄い母成峠を突破され、要衝の十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来は城下町防衛の任に当たるべく組織された予備兵力の白虎隊も、各防衛拠点へと投入された。

白虎隊の最精鋭とされた士中隊の一番隊は藩主松平容保護衛の任に当たり、二番隊は戸ノ口原へ出陣した。白虎隊は教導の篠田儀三郎を隊長として戸ノ口原へ向かった。戸ノ口原につくとじきに新政府軍と遭遇した。幸いに塹壕が掘られており、隊士らはその塹壕に身を潜めた。次第に近づいてくる新政府軍に対し篠田隊長の号令一下、隊士らは一斉に射撃を始めた。敵兵は狼狽を極め、散会し退いた。

しかし、新政府軍は十六橋を渡り次々と戦力を増強してくる。白虎隊隊士らは「ここに隊士死力を尽くし、「銃身熱し手にすることを能わざる迄発射すれども」と、旧式の銃を使用不能になるまで撃って戦ったようだ。会津勢には、死傷者が多く出始め、退却せざるを得なくなり、白虎隊も、身も心も疲れ果てた状態で、ちりぢりになりながら、鶴ヶ城を目指し退却を始めた。

この士中隊二番隊に 伊藤悌次郎がいた。悌次郎は、年齢を偽り白虎隊に入ったようだ。砲術指南の山本覚馬の家とは隣同士で覚馬の妹の八重は悌次郎を弟のようにかわいがっており、悌次郎はそのようなこともあり、自然に砲術を身に着けたという。戸ノ口原出陣の際は父に請い、兼光の刀を帯び奮戦したという。しかし武運拙く、この戦いで命を落とした(飯森山で自刃の説もあり)

白虎隊の少年たちは、途中本隊ともはぐれ、負傷者を抱えながら残りの20人が鶴ヶ城へ向けて撤退した。その途中、敵か味方かわからない部隊に遭遇し、合言葉を求めると発砲された。少年たちは道をそれ、戸ノ口堰洞門を通り飯森山に抜けた。新政府軍の追撃は急で十六橋と戸ノ口原を突破し、城下に迫った。城からは全員登城の命が下っており、会津藩の子女たちは次々と城に入っていた。その後、城下に入ってくる新政府軍を攻撃するのに支障をきたす為、城の近辺の武家屋敷は、城内から会津兵により火矢が放たれ、焼き払われた。

白虎隊の少年たちが、戸ノ口堰洞門を抜けて飯森山にたどり着いたのはちょうどこのようなときだったようだ。すでに新政府軍は城下に入っているようで、少年たちには、業火の中を城までたどり着くことは困難に思えたようだ。敵に向かって突撃するかどうかで「甲怒り、乙罵り、激論以てこれ争う」というやり取りがあったようだ。結局は、敵に捕まり生き恥を晒すよりはと、自刃することに決したようだ。

途中はぐれた少年たちはその後、鶴ヶ城に入城し、士中一番隊の生存者と共に白虎士中合同隊となって西本丸を守った。また飯森山で奇跡的に助けられ生き延びた飯沼貞吉は、電信技士として明治・大正を生き抜き、昭和6年(1931)に77歳で没した。飯沼の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬された。