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韓国によって一方的に引かれた李承晩ライン内での漁業は、韓国籍漁船以外は行えず、これに違反したとされた、主に日本の漁船は韓国側によって臨検、拿捕、接収、銃撃を受けるなどした。

1953年2月、第一大邦丸及び第二大邦丸が操業していると、韓国の漁船二隻が接近、そして日本語で「魚は獲れますか」と話してきた。韓国船はそのまま行過ぎ、付近で停止して操業を装いながら日本船を監視していたが、しばらくして第一大邦丸が揚網作業に入ると、韓国船は船尾から30メートル程度の至近距離から無警告で、自動小銃で第一大邦丸への銃撃を開始した。日本側二隻は逃走を開始したが、第二大邦丸が拿捕され、第一大邦丸は逃走を続けた。しかし銃撃は熾烈で、操舵室内に坐っていた漁撈長は、後頭部左側より銃撃をうけ、意識不明となり、このため第一大邦丸は逃走を断念した。

同船は済州島の翰林面に入港させられ、日本人船員は憲兵によって警察に引き渡され、船内の目ぼしい私物、装備及び漁獲物は警察に没収された。その際に日本人船員側が憲兵に対して負傷者がある旨を伝え、船員は翰林面の病院に収容された。しかし病院とは名ばかりで、病室はもちろん設備も全く無く、医師は見ただけで「これは駄目だ」といって漁撈長の手当てを放棄した。船員たちは警察に行き軍病院かどこかへの入院を依頼した。しかし警察は「我々は軍の命令によって行動したのであって、我々に責任はない」と拒絶した。そこで船員たちは憲兵隊へ行き、病院への収容を再度依頼したが、憲兵隊長に「盲貫銃創だからとても駄目だ」と言われて再度拒否されたが、船員側の度重なる依頼の末、軍病院への入院が許可された。

船員は病院までの搬送の間に漁撈長が死なないように、医者にリンゲルの注射を求めた。しかし医者はリンゲルは高価だと拒否し、結局船員が私物を売り払って金を払う約束をしてリンゲルを一本射った。しかし韓国側は結局漁撈長を放置し、漁撈長は死亡した。船員らは警察に火葬の手配を頼んだが黙殺され、船員は残った私物の一部を売り払い葬儀一式を整え、足りない薪を付近の松の枝などで補い翌日に火葬した。船員は全員警察署の前の防空団詰所に監禁、そこは約4畳の広さしかなく、そこに18人が監禁され、食料は一切支給されなかった。船員はそのため、船内食料で食いつないだ。

拿捕地点は第二大邦丸の通信士によると、翰林より30マイルであったが、韓国側は翰林より9マイル付近であったと主張。日本人船員側が、韓国船のコンパスの自差及び速力の矛盾を指摘したところ、韓国側は両者の主張の中間をとることを強要し、13マイル付近を拿捕位置として捺印させられた。

済州での取調べでは、李承晩ライン侵犯との韓国側からの指摘に対し日本側は、同ラインは韓国が一方的に定めたもので国際法上認められていないと反論した。クラーク・ライン侵犯との非難に対しては、米国公使より作戦の妨害にならなければよいと説明されていたことを伝えた。この際に韓国は自国の領海は島と島を結んだ線から計測されると主張した。しかしこの群島基線に基づく主張は、韓国は群島国家であると主張していないため国際法的には無効だった。

この後、警察は船員に対して領海侵犯をしたという嘘の調書をハングルで作成し、これに捺印させ、日本への通知とした。しかし、韓国側は調書作成の際に、海図で丁字定規一本とたばこ及びマッチを以て測るという具合に杜撰に作成されており、調書の矛盾より公海上の事件であった事がわかった。佐世保の朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令官グリッチ少将が、李承晩に会見を求め、これに対して李承晩は遺憾の意を表し、第一大邦丸の釈放に応じた。

船員らは、韓国の外事主任より今日帰国させる旨通告され、中型ジープで水上署まで移送された。その際に査察課の課長から、「死亡した人に対しては非常にすまない。今韓国は戦時下であるので、君たちに食糧をやりたくてもやれなかった。内地へ帰っても韓国の官憲の悪口を言わないようにしてくれ」との旨の挨拶を受けた。船体は返還され、アメリカ海軍のフリゲート艦に護衛され福岡に帰港した。

この事件に対し、日米両国は「国際法上の慣例を無視した措置」として強く抗議した。しかし当時の日本は、憲法9条によりいかなる軍備も持たず、海上自衛隊の前身組織である海上警備隊、警備隊も存在していなかった。また、当時はサンフランシスコ平和条約を署名はしていたものの発効3ヶ月前で日本の主権は回復していなかった。

その後、1965年の日韓基本条約締結の際の日韓漁業協定の成立により、ラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人がおけ1杯の水で1日を過ごさなければならないなどの劣悪な抑留生活を強いられた。共産主義者だとわかると抑留期間も数年間におよんだ。
李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国、朝鮮人472人を放免し、日本国内に自由に解放し在留特別許可を与えなければならなかった。

これらは、竹島の問題も含め、中国のことわざの「水に落ちた犬は打て」を地でいったもので、日本が力を得る前に、徹底して日本を叩く韓国の外交であり、それに対して日本の憲法9条は、なんら力を持ちえなかったことは明らかである。