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幕末期の養賢堂の考えは、富国強兵を旨とする近代化を目指す開国論であったが、当時の国内は攘夷の考えが強く、仙台藩においても開国に対しては異論が多かった。

あるとき、仙台藩の若き主席家老の但木土佐のもとに、同じ養賢堂出身で、攘夷派の星恂太郎がたずねてきた。恂太郎は仙台東照宮の星家に生まれ、小柄で色が白く瞳の大きい、婦女子のような容姿だったが、性格は豪爽で、人の下に屈するを嫌い、強者を抑え弱者を救うを元とし、酔えば詩を吟じ、それは聴く者の感嘆を誘ったという。仙台藩の中でも強硬な攘夷論者で、開国派である大槻磐溪や但木土佐の暗殺を計っていた。但木土佐は、たずねてきた恂太郎を自分を狙う攘夷論者と知りながら屋敷にあげ、開国の理を説き、恂太郎に対し、「余を以って売国奴となすと憂国の情、真に愛すべし。然れどもおしいかな。子(し)は仙台の小天地に棲息し未だ世界の大勢に暗く、眼孔小にして識見陋(ろう)なり。未だ真成の憂国の士と称するに足らず。子、今より知識を世界に求め、真の憂国者たれ、」と諭し洋兵学を習うことをすすめたと云う。

恂太郎もひとかどの人物であり、考えを異にする但木土佐の言葉を受け入れ、江戸で西洋砲術や洋式の銃隊編制調練などを学び、さらに諸国を遊歴して各藩の兵備を視察し、その後仙台で洋式銃隊を編成し、函館戦争に出向くことになる。

この時期、薩摩藩、長州藩を中心とした倒幕の流れは予想以上に速く進んでいた。慶応2年(1867)徳川慶喜が大政奉還を行うと、但木土佐は、列強が虎視眈々と日本を狙っている中、内乱を起こすべき時にあらずと、四方に奔走し、朝廷にも平和裏に事を収めるよう建白書を提出した。しかし、その意見が聞き入れられることはなく、王政復古の大号令が発せられた。翌慶応3年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いでは、錦の御旗を掲げた薩摩、長州藩兵を中心とした新政府軍が幕府軍を圧倒し、2月には江戸へ向けて進軍を開始、4月には江戸城は開城した。

この時期の、新政府の東北諸藩に対する対応は厳しいものだった。会津藩は、京都守護職及び京都所司代として京都の治安を担当し、京都見廻組及び新撰組による尊王攘夷派の弾圧を行ったことは、特に長州藩のうらみを買っていた。また、薩摩藩邸を焼打ちし、薩摩浪士を討伐した庄内藩は、薩摩藩からの恨みをかっていた。新政府はこの薩摩藩、長州藩が中心であり、会津藩と庄内藩は、新政府軍との戦闘を見越し同盟を結んでいた。しかし仙台藩は、アジアの植民地化を進める列強諸国が看視している中での内戦は避けるべきとの考えから、戦争の回避に奔走した。

しかし、新政府は、仙台藩、米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩追討を命じ、鎮撫使と新政府軍部隊を仙台に派遣した。新政府軍は、仙台城下で強盗、強姦などの乱暴狼藉をはたらくものが多く、仙台藩士らは怒りをつのらせていた。新政府は、仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫り、これに対し但木土佐は会津に謝罪させようとしたが果たせず、仙台藩は会津藩境に出兵した。しかしこの間も米沢藩等とともに会津藩と接触を保ち穏便な解決を模索し、会津藩は一旦降伏した。仙台藩は、奥羽諸藩とともに会津藩、庄内藩赦免の嘆願書を新政府に提出し弁訴したが、参議世良修蔵らはこれを許さぬばかりか、仙台藩、米沢藩を朝敵とし「仙米賊」と呼び、また奥羽一円を掃蕩する計画が世良の密書により発覚した。仙台藩強硬派はこれに激怒し、世良を捕縛して処刑し、ここにいたって、奥羽越列藩同盟は新政府軍に抗することを決し、但木土佐らの苦心は水泡に帰した。

玉虫左太夫は、戊辰戦争が勃発すると、軍務局副頭取となり、奥羽越列藩同盟の成立のため尽力していた。また、戦いが避けられない状況になると、大槻磐溪や但木土佐の意を受けて、「北部政権」とも云える構想の実現に奔走した。これは、奥羽越列藩同盟に蝦夷地も含め、上野戦争から仙台に逃れていた孝明天皇の弟である輪王寺宮を東武皇帝として擁立し、薩長中心の新政府と一線を画す政権構想だった。4月にはこの構想は動き始め、輪王寺宮は6月には奥羽越列藩同盟の盟主となり、7月には白石での列藩会議に出席している。

盟主…輪王寺宮、総督…仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲、参謀…小笠原長行、板倉勝静、政策機関…奥羽越公議府(白石)、大本営…軍事局(福島)、最高機関…奥羽越列藩会議

しかし、薩長を中心とした新政府軍の動きは早く、5月には越後長岡が占領され、同盟軍が押さえていた白河城が新政府軍により奪還された。6月には新政府軍はいわきに入り棚倉を占領、7月には秋田藩、新庄藩が同盟を離脱、三春藩は降伏、二本松城は落城した。8月には相馬藩も降伏し、新政府軍は仙台領の間近に迫っていた。

この時期、星恂太郎は仙台藩へ呼び戻され、西洋流銃術指南役として召し出された。この頃仙台藩には、但木土佐の命により洋式の調練を受けている部隊があったが、その装備も訓練も十分ではなかった。また、戦況が逼迫していく中で、訓練も装備も十分でないまま前線に出てしまっていた。仙台に戻った恂太郎は、すぐに藩士の中から家長と長男を除いた次男、三男で三十歳以下の者を募ったところ、800人が集まり、養賢堂学頭の大槻磐渓はこれを額兵隊と名付けた。恂太郎は、この額兵隊の司令となり、イギリス式調練を行った。その制服は、イギリス軍を模したもので、平時は赤い軍服で戦闘時は服を裏返して黒い軍服にする、いわゆるリバーシブルだったという。

洋式歩兵銃隊の額兵隊は、いわば仙台藩の切り札として期待され調練されていた。同盟軍は、旧装備のまま、準備も不十分なまま新政府軍と戦い、諸所で敗退を重ね、ついに新政府軍は仙台領の境にまでせまっていた。ここで額兵隊に出陣の命が下りたが、恂太郎は準備が不十分としてこれを拒否し、兵器と銃弾の準備を急がせた。

8月にようやく準備が整い、藩に出陣の命令を出すように督促したが、この時すでに、藩は降伏帰順に傾き始めていた。恂太郎は城下で大掛かりな訓練を行い、降伏帰順派を牽制したが、9月に城中に召し出され、降伏帰順が決まったことが告げられた。恂太郎はこの知らせに憤然とし、兵を招集し、額兵隊は藩主の命も振り切り養賢堂を出陣した。

その後恂太郎ら額兵隊250人は脱藩し、仙台藩石巻に寄港していた榎本艦隊と合流し、函館に向かった。恂太郎ら額兵隊は彰義隊、新撰組とともに旧幕府軍の主力部隊として函館戦争を戦い抜いたが、旧幕府軍は結局破れ新政府軍に降伏した。

9月15日、仙台藩は降伏し、9月22日、会津藩も降伏した。大槻磐渓や但木土佐、玉虫左太夫らが描いた北部政権の夢も画餅に帰した。しかし、養賢堂の中で描かれた、列強による支配から日本を守るための「富国強兵」の政策は、その後の明治維新の政策の根幹となってゆくことで、彼らの主張した開明的な考えは正しかったことが証明されて行くことになる。

養賢堂は仙台藩の心の支えでもあったが、薩長軍を中心とする新政府軍が進駐することになり、一説によれば、薩長兵たちによって踏み荒らされるのを危惧した仙台藩士たちは、その象徴としての正門を解体し隠したと云う。現在それは仙台市若林区の泰心院の山門として残っている。

戦後、戦いに敗れ朝敵とされた仙台藩士たちには、地獄の日々が待ち受けていた。勝利におごった新政府軍は各所で乱暴狼藉をはたらき、それを止めようとした藩士や領主は死罪になり、その領内の藩士の多くは新天地を求め蝦夷地に去った。また仙台藩は200万両という莫大な借財を抱え、窮乏した藩士たちの中には、新政府軍の要請で国分町に開かれた遊郭に娘を売るものまで出た。戦線から帰った藩士たちは、各地に四散し隠れ、養賢堂の多くの有為な才能も新時代に生かされることは稀だった。

星恂太郎は捕らえられ幽閉されたが、後に許され、他の仙台藩士と共に蝦夷地に渡り開拓作業に従事したが、その後不遇の内に若くして仙台で没した。玉虫左太夫も責任を問われ、同じ年に切腹を命じられその生涯を終えた。

最後まで内戦を避けようとして東奔西走した但木土佐は、戦犯として東京に拘禁され、明治元年(1869)、その罪を一身に背負い、叛逆首謀の罪で斬刑に処された。故郷の七ツ森を思いながら読んだのだろう辞世の句が残されている。
雲水の ゆくえはいつこ 武蔵野の たた吹く風に まかせたらなん  七峯樵夫

大槻磐渓も投獄されたが、高齢でもあり許され、東京本郷に住み文筆の日々を過ごし、文明開化の時代を傍目に見ながら、時折、但木や玉虫らとともに主張してきたことが「やはり正しかった」ともらしていたと云う。