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韓国は、「日本が竹島を奪還しに来る」とか、妄想をたくましくしているようだ。「日本が奪還」とかって、日本から奪い、不法占拠しているという認識はあるようだ。その竹島での日本人のアシカ漁を、悪逆非道な日本人漁師が、かわいそうなアシカを残虐に殺す子供向け絵本を出版したらしい。産経新聞(2021/02/)から一部引用。

日本は、江戸時代の初期の1618年には、幕府から免許を受けて、毎年1回、葵の紋を打ち出した船印を立てて鬱陵島に渡海し,あわびの採取,あしかの捕獲,樹木の伐採等に従事し、鬱陵島の独占的経営を幕府公認で行っていた。竹島は、隠岐から鬱陵島への道筋にあたり、航行の目標として、途中の停泊地として利用され、竹島もまた、あしかやあわびの漁獲の好地として利用されていた。

日本は、約70年にわたり、他から妨げられることなく、鬱陵島と竹島におけるアワビ漁やアシカ漁などの経済活動を独占的に行っていたが、1692年とその翌年には、多数の朝鮮人が鬱陵島に入り漁採に従事しており、幕府の命を受けた対馬藩は、朝鮮に対し,同国漁民の鬱陵島への渡海禁制を要求する交渉を開始した。しかし、この交渉では、鬱陵島の帰属をめぐって意見が対立し合意を得ることはできなかった。

対馬藩から交渉決裂の報告を受けた幕府は,1696年1月、鬱陵島には日本人が定住しているわけでもなく,朝鮮からの方が近く、朝鮮との友好関係を尊重し、日本人の鬱陵島への渡海を禁止することとした。しかし、鬱陵島から90kmも離れている竹島への渡海は禁止されることはなく、これまで通りの経済活動が続けられた。

その後、竹島において、明治期の1900年代初期には、あしかの捕獲が本格的に行われるようになっていた。しかし、間もなくあしか猟は過当競争の状態となったことから、島根県隠岐島民が、その事業の安定のため,明治37年(1904)、内務・外務・農商務三大臣に対して、竹島の領土編入及び10年間の貸し下げを願い出た。

日本政府は、島根県の意見を聴取の上、明治38年(1905)、竹島が無主地であることを確認し、島根県隠岐島庁の所管とし、名称を正式に「竹島」とした。島根県知事はこの決定を受けて、竹島を官有地台帳に登録し、あしかの捕獲を許可制とした。

しかし、その後、乱獲が懸念され、アシカ漁は大幅に縮小され、隠岐の漁師らはアシカを生け捕りにするようになり、動物園やサーカスで人気者になり、あしかの捕獲は,その後,昭和16年(1941)まで続けられた。

島根県の県立三瓶自然館サヒメルに、3頭のニホンアシカの剥製が並ぶ。ひときわ大きな成獣は竹島で「リャンコ大王」と呼ばれていたもので、漁網を引き裂き、人間にも襲い掛かるほど凶暴で、猟師に恐れられていたが、昭和6年(1931)に仕留められた。

産経新聞(2021/02/)によれば、韓国で近年、アシカを擬人化し、猟を行った日本人猟師を敵視して愛国心をあおる絵本が複数出版されているという。そのうちの1冊、『ごめんよ、独島アシカ』は、アシカ猟による一獲千金を狙って突如、襲来した日本人漁民の残忍さを際立たせて描写。アシカの血で海水が赤く染まる様子や、「独島アシカ大王」と呼ばれる巨大アシカが漁民をくわえたり、握ったりして反撃する絵も描かれている。それは、日本統治時代、「被害者である韓国人は勇敢に日本に立ち向かった」という韓国特有の歴史観を竹島のアシカに投影させ、子供たちに愛国心を教え込む格好の題材にしようとする意図が読み取れる。

しかし、日本による竹島でのアワビ漁やアシカ漁こそが、竹島が江戸時代の初期から、日本が経済活動を行い、実効支配していた証でもあるわけで、奇しくも韓国のプロパガンダ絵本は、竹島が日本領であることを証明しているものともいえる。

その後、終戦後の1951年7月、李承晩はサンフランシスコ講和条約草案を起草中の米国政府に対し要望書を提出。この要望書では日本の在朝鮮半島資産の韓国政府およびアメリカ軍政庁への移管、竹島、波浪島を韓国領とすることを要求、これに対し、アメリカは「ラスク書簡」で、在朝鮮半島の日本資産の移管についてのみ認め、後は韓国政府の要求を拒否し、同年9月にサンフランシスコ講和条約は調印された。

李承晩は、サンフランシスコ講和条約の内容に不満であり調印せず、その上で、講和条約の発効前の1952年、突如としてマッカーサー・ラインに代わるものとして「李承晩ライン」の宣言を行った。これにより竹島は、戦後の国際ルールを無視したままの韓国により、現在も事実上不法占拠されたままになっている。

韓国はアシカを使った絵本で、幼い子供への反日洗脳教育を行っているようだが、日本は早くから乱獲による絶滅を危惧し、前述のようにアシカ漁を許可制とし、後には、年間20頭前後の捕獲のみを認めるのみだった。韓国が竹島を不法占拠し、海洋警備隊を常駐させるようになった1958年頃には、まだまだ多くのニホンアシカが生息していたのが、それが1975年には全くいなくなり、竹島のアシカは絶滅してしまった。アシカを絶滅に追いやったのは、不法占拠と開発によるもので、また竹島に駐屯した海洋警備隊などの食料にされたものと考えられている。