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第二次世界大戦後、日本漁業の経済水域は、占領軍による日本統治のために引かれたマッカーサーラインにより大きく制限された。しかしそれは暫定的な物で、サンフランシスコ講和条約により日本主権が回復されれば、廃止が予定されていた。

韓国は、朝鮮半島から日本が去ったことにより、アメリカを後ろ盾とし成立した国である。初代大統領の李承晩は、日本統治時代の殆どはアメリカに在住し、韓国独立のためのロビー活動によりアメリカでは知られた存在だった。そのことがアメリカが李承晩をバックアップした理由だった。

李承晩は、建国当初から、韓国を戦勝国として位置付けるために、連合国側に働きかけた。そして当時一部にあった日本列島分割統治案に乗じて、対馬、九州を韓国が統治することを強く主張していた。しかし、連合国が、大韓民国臨時政府を承認してはおらず、また臨時政府が日本と交戦したこともなかった。むしろ大戦当時は朝鮮半島は日本領であり、後の大統領の朴正熙がそうであったように、朝鮮人の多くは日本人として連合国側と戦ったのが現実であり、それが受け入れられることはなく、当然の事ながらこの要求はイギリスやアメリカによって即座に拒否された。

それでも1949年1月、李承晩は対馬領有を一方的に宣言し、連合軍占領下で主権が制限されている日本に対馬返還を要求した。その理由は、「豊臣秀吉の時代に日本が不法に奪取したもの」というものだった。

1951年7月、李承晩はサンフランシスコ講和条約草案を起草中の米国政府に対し要望書を提出。この要望書では日本の在朝鮮半島資産の韓国政府およびアメリカ軍政庁への移管、竹島、波浪島を韓国領とすること、並びにマッカーサー・ラインの継続を要求した。これに対し、アメリカは1951年8月に「ラスク書簡」にて回答、在朝鮮半島の日本資産の移管についてのみ認め、後は韓国政府の要求を拒否し、同年9月にサンフランシスコ講和条約は調印された。この講和条約は翌1952年4月に発効される手筈となっており、この発効と同時にマッカーサー・ラインは廃止される予定となっていた。

李承晩は、サンフランシスコ講和条約の内容に不満であり調印しなかった。その上で、講和条約の発効前の1952年1月、突如としてマッカーサー・ラインに代わるものとして「李承晩ライン」の宣言を行った。

日本は当時、憲法9条とGHQの指導の下、武力を持たず、自衛隊もいまだ組織されていなかった。またサンフランシスコ講和条約の発効前であり、独立を回復しておらず、日韓間に国交もなかった。この李承晩ラインに対して、2月にアメリカ政府は公海上での行政権行使に対する懸念を示す口上書をもって抗議を行った。また、6月には中華民国が、翌1953年1月にはイギリスが抗議を行った。更にアメリカ政府は竹島問題をサンフランシスコ平和条約により日本領として残したこと、李承晩ラインの一方的な宣言が違法であることを韓国政府に伝達している。しかし竹島は、戦後の国際ルールを無視したままの韓国により、現在も事実上不法占拠されたままになっている。

韓国では、この李承晩ラインを「平和線」と呼び、国際法において確立されたものであると主張していた。その主張は、
・トルーマン宣言、メキシコなど南米諸国の宣言と同性格であること
・マッカーサーラインは継続し有効に存続していること
・接続水域の地位は国際法上確立しており、接続水域における漁業の絶対的自由は認められないこと
などであるが、これらはいずれも虚偽と言っていいものである。

アメリカは、南米諸国の宣言に対し抗議しており、またマッカーサーラインの継続についてはラスク書簡で拒否している。接続水域は、関税や検疫のために限定された管轄権を行使できる水域で、漁業独占のための水域ではない。つまり韓国が李承晩ラインの根拠とする者はいずれも真っ赤な嘘か、あるいは控えめに考えても無知による強弁といえる。

しかしその後、この李承晩ライン周辺では、日本の漁船が多数拿捕され多くの犠牲者が出ることになる。