寛政5年(1793)11月、24反帆、800石積みの千石船若宮丸は、 沖船頭平兵衛以下16人が乗り組み、 藩米332俵と木材を積んで石巻港を江戸へ向けて出帆した。塩屋崎沖で大しけにあい、 舵も失い、 やむなく帆柱を切り倒し、船はそのまま南の強風に遭い、北へ北へと漂流した。
漂流すること実に7ヶ月、船体は破損し食糧もつき16人の生命にも危機が迫った時、辛くも到着したのはロシアの植民地になっていたアリューシャンの 小島のオンデレィッケ島に漂着した。 ここでロシア船に助けられ、シベリアのイルクーツクに送られた。
イルクーツクはシベリアの中の大都会だった。ここで一行はおよそ7年間を過ごすことになる。その間、善六と辰蔵は、このままロシアで暮らすことを決心する。その後善六は、日露の交渉の場に、通訳として姿を現すことになる。
1803年3月、 ロシア皇帝からペテルスブルグへ来るようにとの命を受けた。一行は馬車に乗りペテルスブルグへ向かった。馬車は日夜ぶっとうしで走り続けた。それでもシベリアの大地は恐ろしく広く、ペテル スブルグまでの7000kmの道程に49日間を費やした。この過酷な旅で何人かが病気と疲れで脱落し、結局10名がペテルスブルグに到着した。10名は皇帝に謁見、帰国の意思を問われ、津太夫、左平、儀平、太十郎の4人が帰国を希望し、残り6名は残留を希望した。
ロシアには日本との通商交渉を有利に進めたいという意図があった。漂流民の一行を日本に送り届けることで、その通商も友好的なものであることを印象付けたかったのだろう。ペテルスブルグに着いた10人は、皇帝アレクサンドロに謁見し、皇帝の歓待を受けた。一行の内、津太夫、儀平、左平、太十郎の4人が帰国を希望し許された。
レザノフを特使とし、一行を乗せた船はペテルスブルグからバルト海を抜け、コペンハーゲンに寄航し、リスボン沖を通過し大西洋を南下した。船はカナリア諸島のサンタクレアに寄港し、ここからは大西洋の真っ只中に入っていく。赤道を通りすぎ、ブラジルのサンタエカテリーナに寄港した。ここで40日ほど滞在する。
ブラジルを出た船は、南アメリカを陸地沿いに南下する。南に進むほどに寒くなり、マゼラン海峡では船は流され南極圏にまで入った。難所のマゼラン海峡を抜けるのに一ヶ月を要した。
マゼラン海峡を抜けると気候は穏やかになった。船はポリネシアのマルケサス諸島に停泊した。ブラジルを出てから4ヶ月かかっていた。その後船は再度赤道を越えてハワイに寄り、カムチャッカに向かった。途中、太十郎達が難破した海域を通り、太十郎たちは受身ではあったが、結果として世界一周を果たしたことになる。
カムチャッカに2ヶ月滞在し、太十郎たちはいよいよ日本への帰国の途に着いた。しかし長崎に着いた太十郎たちを待っていたのは、決して暖かい対応ではなかった。
キリシタン禁制の日本では、太十郎たちがキリシタンに改宗していないかどうかが問題だった。太十郎たちは幕府の取調べに対し必要以上の多くは語らなかった。特にロシアに残った者たちに関しては語ろうとはしなかった。恐らくは日本の親類縁者に類が及ぶことを恐れたのだろう。
また鎖国政策を採っていた幕府は、レザノフが提出したロシア皇帝の親書と通商の申し入れを受け付けなかったが、漂流民の帰国は受け入れる考えだった。しかしロシアのレザノフにとってはそれは受け入れがたかった。太十郎たちはロシアにとっては通商条約を結ぶ上での交渉のカードになっていた。
このような中で、太十郎は小刀を自分の口に突き刺した。4人の中では最もロシア語に堪能で、好奇心にあふれ、行く先々で世界の情勢や動植物を見てきた太十郎だった。その太十郎がこれ以降正気を失い、無言の中に閉じこもってしまった。
この事件をきっかけに日露双方は態度を改め、日本側はやっと漂流民の受け取りに応じ、レザノフもまた通商という政治的な思惑を捨て、漂流民送還を第一と考えるようになった。幕府は、通商を拒む以上漂流民はロシアにつれて帰れと言ったのだが、レザノフは最後まで彼らの受け取りを要求していた。
レザノフは日露通商の目的を達せないまま日本を離れることになった。レザノフと津太夫らは別れるにあたり、ロシア風に抱擁し涙を流したという。
4人は江戸に送られ、学者の大槻玄沢の取調べを受け、『環海異聞』の編纂にかかわる。太十郎はこれに応じることはできなかった。大槻をして「彼が元気であれば」と言わせ、事実、時代が許すものだったら、太十郎の見聞してきたことは日本の近代化に大きく寄与したことだろう。
津太夫、儀平、左平、太十郎の4人は国許に帰ることを許された。船出をして足掛け14年、彼らはついに故郷へ帰った。彼らが望んだものではなかったが、日本人初の世界一周という偉業を成し遂げていた。北極圏、南極圏の氷山も見た。アリューシャンやポリネシアの人々の生活もみた。ロシア国内で長く生活し、その文化を目の当たりにした。さまざまな珍しい動物、植物も見た。しかし彼らはそれを語り継ぐことはなかった。
偉大なる平民たちは歴史からその名を消した。自殺を図り廃人となった太十郎は、故郷に着いてすぐ病死した。36歳であった。そして同じ宮戸島の儀平も、あとを追うようにして半年後に死んだ。45歳だった。 津太夫、左平もロシアでのことをあまり多くは語らなかったのだろう、その後の消息は定かではない。
石巻の禅昌寺境内に若宮丸の供養碑がある。この供養碑は、寛政11年(1799)に、若宮丸の生死不明の乗組員の七回忌供養のために建立されたもの。供養碑は、平成元年(1989)、庭園を直していたときに、石橋の土台になっていたのが発見され、改めて立て直された。
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