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7月14日、磐城平の戦いで敗れた列藩同盟軍は、体勢立て直しを期して、浜通りを広野まで下がった。新政府軍は、磐城平城落城後、小名浜港に仙台追討総督の四条隆謌が到着、長州藩や福岡藩兵などがぞくぞくと平潟軍に加わった。

新政府軍は、白河口の部隊と連携して北上を続けるために、平潟軍を二分して一方を従来通り相馬中村藩および仙台藩へ、もう一方を、山間の道を抜けて白河口の部隊と共に中通り方面を攻撃することに決定した。

四条総督の平潟軍は二分され、一時的に兵力が半減し、仙台藩侵攻のための援軍を編成中だったが、白河方面軍の北上と連携するために、援軍の到着を待たずに、相馬中村藩領への北進を始めた。平潟方面軍への増援は以降もなされ、対仙台藩の最終局面となる10月には、兵力は10,000を数えるまでになった。

7月22日、広島、鳥取藩兵は、大きく広野手前の末続村まで前進し哨戒に当たり、浅見川に到達した所で、向こう岸に陣を張る同盟軍を発見、直ちに攻撃に移った。新政府軍は、磐城での戦いから、同盟軍の士気は低いと考えていたようで、同盟軍の本隊は遠く熊ノ町にまで撤退していると判断していたようで、向こう岸の同盟軍は少数で、容易に破ることができると思い込んでいたのかもしれない。

実際にはこの同盟軍は、仙台藩と相馬中村藩の他に彰義隊も参加し、士気は旺盛だった。浅見川を利用した陣地で新政府軍の前進を阻み、戦闘は夜を徹して戦われ、翌日24日朝、同盟軍は後退し始めたが、新政府軍にはそれを追撃する余力はなかった。同盟軍は、25日、26日と猛攻をかけてきたが、新政府軍は、陣地にこもりひたすら救援を待つしかなかった。

正午頃、長州、岩国両藩兵が到着すると、新政府軍はただちに陣地から飛び出し攻撃を開始、鳥取、広島藩兵もそれに続いた。この勢いに同盟軍は押され、形成は逆転、恐慌状態になり二ツ沼の陣まで退いたが混乱は収まらず、立て直そうとした仙台藩参謀が戦死、相馬中村藩の鬼将監こと相馬将監胤眞も戦死し、これにより同盟軍は潰走した。同盟軍の部隊長らは兵たちを踏みとどまらせようとしたが、長州藩の追撃は激しく同盟軍の兵たちを恐慌へと駆り立てた。

同盟軍の兵は、拠点の木戸駅を放火し、天然の要衝北繁岡にも目もくれず逃走、相馬中村藩領に入り熊川に到達してようやく足を止めた。しかしこの時には、うち続く戦闘と敗走で、同盟軍は戦意を失いつつあり、特に、相馬中村藩に対しては、新政府への寝返りを疑う声が出ていた。29日には、仙台藩は「相馬中村藩の行動に怪しむべき点あり」とし、前線を去って後方に引き上げた。また旧幕府の部隊も仙台領に去り、もはや前線に立つ部隊は相馬中村藩の2小隊のみとなっていた。

相馬中村藩兵は、藩領間近への敵の侵攻により戦闘意欲を取り戻し、離散していた藩兵たちも集まり始め、浪江の高瀬川を前に陣を敷いた。この日は雨が降り、 高瀬川は水かさが増し流れも急であったが、新政府軍は援護射撃を受けながら何とか川を越えることに成功したが、相馬中村藩兵は反撃の意思を崩さなかった。午後6時を目前にし、新政府軍は陣地を突破できず、川を背に立ち往生していた。この新政府軍の左側に、相馬中村藩兵の援軍が現れ、川を背にし撤退に手間取っているうちに、陣地から飛び出してきた相馬中村藩兵の抜刀白兵戦を受け、被害を拡大させた。

8月1日の早朝、新政府軍は兵を3つに分けて、正面からの渡河部隊が注意を引き付けている間に、高瀬川の上流と下流を渡河した部隊が左右から浪江陣地を攻撃する手はずだった。相馬藩兵は善戦したが、高瀬川上流を迂回した新政府軍が、浪江陣地の背後の砲台を襲い占拠し、その高台から浪江の陣地を一気に攻撃した。これにより相馬中村藩兵の戦意は粉砕され、相馬藩兵は逃走した。

この戦いで、相馬中村藩の組織的な抵抗は終了した。 仙台藩兵は相馬中村藩領から仙台藩境の駒ヶ嶺城に引き上げ、米沢藩兵も自領へと帰り、彰義隊などの旧幕府軍も仙台へと退却した。これまでの間、7月29日には新潟港が陥落して会津藩は孤立無援となり、また同日には激戦の末に二本松城が落城しており、仙台藩らは自領の防衛を優先していた。

2日、仙台藩は、相馬中村藩主相馬誠胤に使者を送り、仙台に逃れて再挙を図るよう説得したが、それは、相馬藩兵に対する人質となることも意味しており、相馬藩は、城を守って倒れることは武門の本懐であると脱出を拒否した。しかし相馬中村藩は、4日に新政府へ降伏の使者を出し、6日には新政府軍から降伏を認められた。

これで浜通りの諸藩は全て新政府軍に制圧され、7日には、四条総督ら新政府平潟方面軍は相馬中村城に入城。以後、中村城は新政府軍の対仙台拠点となり、仙台藩が降伏するまで2ヶ月間におよび、物資、人員を徴発され続けることになる。

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