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薩長を中心とした新政府軍は、鳥羽伏見の戦いで勝利し、江戸に進軍し、江戸城は無血開城で、これまで旗色を明確にしていなかった西日本の諸藩も、新政府軍に参加した。東北地方では奥羽越列藩同盟が結ばれ、 白河口の戦いが始まり、 装備に優れた新政府軍は、度々旧幕府軍を撃破していたが、戦力の不足は顕著であり、決定的な勝利は得られないでいた。 しかしその後、上野での彰義隊との戦闘など、関東地方での戦闘が終息しつつあり、新政府軍は東北地方へ兵力を移動できる状態になり、板垣退助率いる土佐藩兵と薩摩藩兵を中心とする一軍が白河口への援軍に向けられた。

新政府軍は更に、海路を用いて白河口から東の磐城地方の平潟に敵前上陸し、浜通りを攻め上る作戦を立案した。上陸作戦の第一陣は、薩摩藩、大村藩、佐土原藩の三藩1,000余名だった。これに対し、列藩同盟側は、平潟周辺に仙台藩を中心にした部隊と浜通り諸藩の兵を配置していた。浜通りは、仙台藩が主導しており、また磐城平藩は一貫して佐幕派だったが、他の3藩は小藩で藩論が割れていたが、仙台藩、二本松藩、会津藩らに近い地勢的な理由から仙台藩に追従していた。

6月16日新政府の輸送艦が平潟に到着。全軍上陸させようと、村民らに金銭、子供らに菓子などを渡して懐柔し、さらに朝廷の御用であることと、賃金を支払う旨を約束して揚陸を手伝わせた。この間、列藩同盟軍はなぜか兵を動かさず後退した。

新政府軍の平潟への上陸を許してしまった列藩同盟軍は、関田方面に出撃し新政府軍と戦闘状態に入ったが、新型装備の新政府軍に撃破され敗走した。これにより、新政府軍は第二陣到着までの時間を稼ぐことに成功し、同月20日には、薩摩藩、大村藩、佐土原藩など、1,500名となった。これに対し列藩同盟軍も、相馬中村藩は7小隊、米沢藩は1大隊、仙台藩は3大隊を磐城平に出兵した。

24日、相馬中村藩兵が磐城平城に到着したのを機に、湯長谷の同盟軍は出撃し、新政府軍に好意的な集落は放火し、植田の八幡山に陣を構えた。この近くに陣を構えていた岡山藩兵は、八幡山を攻め激戦になった。新政府軍は薩摩、柳河藩兵を援軍に出し、これにより同盟側は八幡山防衛を断念し撤退した。

翌25日、土佐藩の板垣退助が800の兵で棚倉城を攻略したとの情報が平潟にも届いた。これにより白河口の戦いは一挙に新政府優位に傾き、新政府軍は本格的な北進の準備を始めつつあった。平潟勢も28日から白河勢と連携し、浜通り諸藩へ攻勢に出ることを決定した。

28日午前、新政府軍は薩摩、岡山、大村藩は、海沿いを通り泉藩へ向かい、柳河、佐土原藩は、山道を通り湯長谷藩・平藩へ向かった。列藩同盟軍は小浜付近に陣を築き、先鋒の薩摩隊を迎え撃った。これに対し、薩摩隊は兵を2つにわけて、一隊を迂回させ同盟軍を挟撃して敗走させた。新政府軍はこのまま泉藩の泉陣屋を攻撃し、藩主が退却した後の泉陣屋を難なく占領した。

湯長谷に向かった柳河、佐土原藩隊は、堅牢な陣地で抗戦する列藩同盟軍に対し、攻略の糸口が掴めずにいた。しかし、泉藩を攻略した薩摩隊が、列藩同盟軍の左側背に突如として出現したことで同盟軍は動揺し、さらに別の薩摩隊が同盟軍の後背に現れ、同盟軍は壊走し、 湯長谷館は難なく占領された。また、増援として泉藩と湯長谷藩に向かっていた仙台藩の大隊は、林道を進軍中に左右から攻撃を受け、多数の死傷者と逃走兵を生じさせ、残存の部隊は磐城平城へ撤退した。

磐城平は、奥羽越同盟軍にとって重要な拠点であり、同盟軍の戦意も旺盛だった。同日、米沢隊が援兵として加わり、米沢、仙台、相馬中村隊は稲荷台に砲陣をしいた。火縄銃が主体の列藩同盟軍であったが、米沢隊は元込銃で武装しており、猛射によって新政府軍の前進を食い止め、新政府軍は攻めあぐねたまま日没を迎え、湯長谷に一時退却した。

この日、仙台藩の一大隊が小名浜に上陸し、泉領奪還に向かっていた。仙台隊は、密集陣形で水田地帯を進軍中、 岡山、佐土原隊の援軍に向かう薩摩、大村隊と遭遇した。仙台隊は、薩摩隊の最初の砲撃で多数の負傷者を生じ、間髪を入れずの薩摩隊の突撃と側面からの大村隊の一斉射撃で総崩れとなり、一部の兵は小名浜へ撤退したが、実質的に大隊は壊滅した。

同盟軍は、新政府軍の磐城平への初戦の攻撃を辛うじて退けたが、被害は甚大で、戦況は日に日に悪化していた。白河口の戦いは敗れ、棚倉城は落城し、浜通り、中通りの諸藩は動揺していた。磐城平藩は藩主安藤信勇は不在で、城を守る隠居の安藤信正は強い佐幕思想を持っていたが、藩論がまとまっているとは言い難かった。それに対して新政府軍は、平潟に続々と援兵が到着し、7月12日には新政府軍の兵力はほぼ倍になった。

7月13日未明、新政府軍約3,000は、同盟軍800が守る磐城平城攻めを開始した。新政府軍は兵を三分し、左翼隊は稲荷台陣地を攻撃し、中央隊、右翼隊は稲荷台が混乱している隙に磐城平城下になだれ込んだ。平城への退路を断たれる状況に稲荷台の同盟軍は城に撤退し、新政府軍はとうとう磐城平城の東西南の三面を包囲した。北方面についてはあえて兵をつけず逃走経路として残していた。

その日の空模様は雷雨で、火縄銃主体の仙台、相馬中村藩の火力は著しく減退していた。磐城平城の同盟軍は、四倉に陣を敷く同盟軍の援軍に頼るしかない状況だったが、磐城平城周辺での戦闘で消耗しきっており、弾薬の補給と部隊の再編成が急務であり、13日中の援軍出撃は不可能だった。以上の経緯から、戦況の甚だしく不利であることは篭城側の列藩同盟軍も把握しており、藩主に変わって磐城平城主となっていた安藤信正は、家臣団に説得されて午後に脱出を決意し、仙台隊とともに城を逃れ出た。

しかし、城に残った磐城平と相馬中村藩兵は戦意を失わず、死を覚悟し、城内の銃器を役目、身分を問わず配布し、4小隊200名ほどを編成し、新型装備の3,000名の新政府軍と対峙した。新政府軍は、歩兵の突入によって一気の制圧をはかるが、城方は頑強に抵抗し、日がくれるまで持ちこたえていた。

新政府軍はこの日の攻撃を終えていったん引き上げたが、薩摩藩だけは攻撃の手を休めることはなかった。磐城平城側は少数のため交代人員も立てられず、戦いを継続することはもはや不可能な状況で、深夜0時、城内に火を放ち全軍引き上げを開始し磐城平城は火に包まれ落城した。 四倉に陣を構えていた列藩同盟軍は、相馬中村藩領での体勢立て直しを期して陣を引き払った。

浜通りの新政府軍の最終目標は同盟軍の中心の仙台藩で、その後の白河の新政府軍と連携しながら北上することになり、平潟軍を二分し、一方は山間の道を抜けて白河口の部隊と共に三春藩方面を攻撃し、もう一方は広野と熊川で待ち構える相馬中村隊と仙台隊に向けて兵を進めることになる。