幕府の学問所である昌平黌に学んだ大槻平泉は、朱子学を正統な学問としていたが、他の学科の増設も行い、全国に先駆けて算術の講座が置かれ、仙台藩の天文学、数学は養賢堂を舞台として繰り広げられた。文政5年(1822)にわが国初の西洋医学講座を実施した仙台藩学校蘭科を開設したのはこの時代で、これは林子平や大槻玄沢の開明的な流れがあったからだと考えられる。
大槻平泉の没後は、その長子の大槻習斎が学頭に就任し、川内中坂通に養賢堂の支校である小学校の振徳館を開校し、また庶民の子弟のために養賢堂構内に日講所を開設し、身分の隔てなく広く教育水準の向上につとめた。
養賢堂における教育は、文武両道を修めさせることを目的としていたが、志望により単独の科目の履修も許可していた。大槻習斎のころには、漢学、国学、書学、算法、礼法、兵学、蘭学、洋学、剣術、槍術、柔術、楽といった学科が設けられていたと伝えられる。
養賢堂への入学は8歳からとされ、修業年限は特に定められてはいなかった。しかし、17歳までには素読試験に合格しなければならず、また落第が3回に達すると退校させられることとなっていたという。試験は春秋に行われる「試業」と、学科の卒業試験として年末に行われる「改め」があったと云う。生徒数は定かではないが、幕末ごろには、通学生は1日1000名以上、履修者が多かった素読の講義では一朝650名にも達したといわれている。
養賢堂は、幕末期には単なる学問所としてだけではなく、藩政の主要な政策を立案、諮問する機関でもあったようだ。仙台藩領内から優秀な人材が集まっていることから、それは当然の成り行きだった。
ロシアが幕府に通商を求め、これを拒否されたことに対しての千島に対する報復攻撃以降、奥羽諸藩は蝦夷地の警備のために兵を出していた。仙台藩は文化5年(1808)、蝦夷地の択捉(えとろふ)、国後(くなしり)および箱館の警備のために、凡そ2000名が北海道に向かった。しかし、その後は新たな事態の展開もなかったので、全員帰藩した。しかし、嘉永7年(1855)に、仙台藩は蝦夷地の警備を再度命じられた。蝦夷地警備には莫大な費用がかかり、財政が逼迫していた仙台藩は、これを一つの活路にしようと考えたと思われ、藩士の次三男を屯田兵として移住させ、新仙台領を建設しようとして藩領編入を願い、安政5年(1859)には許可された。
これを受けて仙台藩では、養賢堂学頭大槻習斎を中心に「開物、成務」の計画をたて武備をかためながら、西洋式新技術を採り入れ、軍制改革を推進していこうとした。この時期の仙台藩の考え方は、その後明治政府がとったような「開国」「富国強兵」のようなもので、頑なな「攘夷」ではなかった。このような中で、日本で始めての洋式軍艦「開成丸」が建造された。
開成丸は、安政3年(1856)、江戸から造船技師が招かれ、養賢堂兵学主任の小野寺鳳谷を始めとし、多くの養賢堂の頭脳が集められ、現在の塩釜市寒風沢島で建造された。しかし時代の大波は予想を超える速さで押し寄せ、嘉永5年(1853)、ペリーの浦賀来航により鎖国が破られ、艦船には急速に戦闘能力が要求されるようになり、開成丸はすでに時代遅れとなっていた。そして養賢堂にも幕末の大波が押し寄せてくることになる。
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