スポンサーリンク

大韓帝国時代、高宗は光武改革を行ったが、それについてイギリスの旅行作家イザベラ・バードは、『朝鮮紀行』で以下のように述べている。
「朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、 全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはびこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。 盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。」

ハーグ密使事件以降、日本では盛んに韓国併合が取りざたされるようになった。反対論には、福沢諭吉の「脱亜論」を受けて、「朝鮮人を皇民とせしは皇国民の質の劣化となる」というものもあったとされる。また、併合の際に、朝鮮の近代化のためには莫大な資金の負担についての懸念もあった。反対に、軍部を中心に、ロシア勢力が弱体化した満州への膨張政策のため、日韓併合賛成派もあり、国論は併合賛成・反対に二分された。

1909年7月の閣議で、日韓併合方針は明確となった。伊藤博文は併合に反対だったとされるが、「韓国の富強の実を認むるに至る迄」と了承し朝鮮統監となった。併合に当たっては、統監として朝鮮の権限剥奪や軍隊解散、皇帝の退位などに関与しなければならず、抗日独立派からは敵視され、同年10月、安重根により暗殺された。伊藤博文は死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたという。この暗殺事件により日本の国論は沸騰し、また動揺した朝鮮親日派の嘆願などの影響で、併合は早められ、結果として、安重根は「先の読めない暗殺者」ということになった。

同年12月には、当時、自称会員100万人を誇る韓国最大政党である「一進会」は、「韓日合邦を要求する声明書」を上奏した。これは、大日本帝国と大韓帝国が対等な立場で新たに一つの大帝国を作るというものだった。また、この声明の中で「日本は日清戦争や日露戦争で、莫大な費用と多数の人命を費やしながら、韓国を独立させ、ロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約、ハーグ密使事件も我々が招いた。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受し、政府と社会を発展させよう」との声明をだした。もちろんこれは、伊藤博文暗殺に対する日本人の反感に敏感に反応したという側面もあるだろう。

1910年8月、注意人物の事前検束が行われた上、一個連隊相当の兵力が警備する中、漢城で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、大日本帝国は大韓帝国を併合した。新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置され、韓国の皇族は大日本帝国の皇族に準じる王公族に封じられ、また、韓国併合に貢献した朝鮮人は朝鮮貴族とされた。

日韓併合は、当時のアジアの列強諸国の競り合いの中で生まれたぎりぎりの結論であり、国際社会はこれを受け入れた。そしてこれは、一進会が言うように、国民を省みることなく、国際社会を争乱に巻き込んだ、大韓帝国自身の強欲と腐敗と権力欲の結果だった。