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朝鮮の妓生制度は、中国の妓女制度が伝わったものといわれる。もとは宮中の医療や歌舞を担当するものだったが、のちに官吏や辺境の軍人の性的奉仕を兼ねるようになった。

時代により多少の違いはあるが、妓生は奴婢であり、家畜と同じように所有物として売買される対象だった。日本の遊女の「身売り」は「前借制」であり、前借が返済されれば「年季が明け」自由の身になったが、妓生はその人生すべてが売買されるもので「奴隷」といえるものだった。

妓生は、李氏朝鮮時代には、宮中での医療を行い、衣服の縫製もした。一般的には貴族である両班を相手とするため、歌舞音曲、学問、詩歌、鍼灸などに通じている必要があった。教養が高く、容貌に優れた一部の者は、両班の妾となり、華麗な衣服や豪華な装飾品の着用が許され、奴婢でありながら、フランスやイギリスなど、他国の高級娼婦と同様に服飾の流行を先導した。

そのため、奴婢が這い上がるためのあこがれの存在でもあり、各地に妓生学校があった。しかしその実態は、娼婦の養成学校であり、日本統治時代には、平壌の一校を除き廃止された。

李王朝の九代国王成宗と十代国王燕山君は妓生をこよなく愛した。とりわけ燕山君は暴君で知られ、後宮に妓生をたくさん引き入れ、王妃が邪魔な場合は処刑した。化粧をしていなかったり、衣服が汚れていた場合は妓生に杖叩きの罰を与え、妊娠した妓生は宮中から追放し、また妓生の夫を調べ上げて皆斬殺した。全国から美女であれば人妻であれ妾であれ強奪し、全国から、8歳から12歳の美少女を集め淫したとも記録され、『李朝実録』では「王色を漁す区別なし」と記している。

また、妓生は外交的にも使われることがあり、貢ぎ物として贈られ、清の外交官に対しても、「安価な生け贄」として供与された。それは今も、北朝鮮や韓国で、「ハニートラップ」として外交的に使われているという噂もある。

李氏朝鮮が日本の開国要求を受け、日朝修好条規を締結した以降は、釜山と元山に日本人居留地が形成され、日本式の遊郭なども開業していった。日本の遊女やロシアなどから白人の外娼などが入り込み、従来の妓生制度と融合して区別が無くなっていった。

日本統治時代には妓生は公娼制度に組み込まれていった。しかし、大韓帝国の時代までは初潮前の少女を妓生とすることが多かったが、韓国併合後には、少女を妓生とする事は禁止された。

1940年当時の妓生の実態を朝日新聞記者が調査した内容によると「妓生の大半は売春婦」である事をルポタージュしており、朝日新聞の植村隆が、従軍慰安婦として金学順を記事にした際、親に妓生学校に売られた事実を書かなかった理由として、「妓生は必ずしも売春婦ではない」としている。しかし、それは殆ど虚偽であるといえる。妓生学校に「月謝」を払って入学させるのではなく、「売った」と言う事実だけで、どのようなことになるかはだれでもわかることだろう。

韓国においては、「妓生」の流れは、売春産業として継続されていたが、取り締まりが厳しくなり、その結果海外へ売春が「輸出」されている。北朝鮮においては、全国から美女を集め「喜び組」と呼び、要人の夜伽や、外交の「ハニートラップ」として供しているとされる。

現在の金正恩の夫人もこの「喜び組」の出身とされ、かつての「妓生」同様、決してその身分は安泰なものとは思えない。最近の「喜び組」のメンバーの多くが、残虐に処刑されたことを思えば、その立場はかつての李王朝時代の「奴婢」と大差がないものと言えるかもしれない。