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現在の三沢空港の地に、昭和17年(1942)陸上攻撃機の実戦部隊として三沢航空隊が開かれた。しかし戦況の悪化により、活躍の場はなかった。昭和19年(1944)7月、サイパン島陥落により、サイパン、グアム、テニアンにはB29爆撃機の基地がアメリカ軍により設営され、11月には東京に対する空襲が開始された。

昭和19年(1944)のマリアナ沖海戦と、その後のレイテ沖海戦で、日本海軍は、主力艦艇の大半を失い、その他の空母や水上戦闘艦も南方からの燃料の運搬が困難になり、作戦行動不能となっていた。昭和20年(1945)5月には、残存部隊を指揮する海軍総隊が新設された。しかし、水上艦艇は燃料不足でほとんど活動できず、海軍の主力は陸上基地を拠点とする航空部隊や、特殊潜航艇、人間魚雷などの特攻兵器からなる特別攻撃隊に移り敗戦まで戦うことになった。

三沢航空隊には、 呉鎮守府第101特別陸戦隊(350名)が移動することになった。この部隊は、B29による日本本土への爆撃を阻止するための「剣号作戦」を企図しての部隊だった。 「剣号作戦」 とは、一式陸上攻撃機に陸戦隊員を乗せ、サイパン島に強行着陸し、 B29 を破壊する大規模な空挺攻撃だった。作戦は、輸送機として第706海軍航空隊の一式陸上攻撃機30機が集められ、搭乗員と陸戦隊員は、ともにサイパン島に着陸後、死ぬまで戦う特攻作戦だった。

この作戦では、 作戦決行日に向け夜間の長距離歩行訓練が行われ、また米軍に似せた迷彩服と靴を作り、一部の部隊では容貌がアメリカ人に似た者が集められ、全員が長髪、英語教習まで実施され、7月24日前後に予定された作戦決行日に向け訓練が行われた。

しかし、昭和20年(1945)7月14日、ハルゼー第3艦隊の艦載機による奇襲を受け、三沢基地は分散退避中の陸攻の大半を失った。

この時期、アメリカは原爆を完成させており、アメリカのテニアン基地などから B29 による日本本土への原爆投下の計画があり、それは日本も情報として掴んでいたと思われる。そのためもあったのだろう、ハルゼー艦隊艦載機の奇襲攻撃で、陸攻の大半を失っても、海軍司令部は、 全国から飛行可能な一式陸攻を総動員、さらに第二剣作戦部隊として陸軍第一挺身団を千歳基地に、強行着陸前の銃爆撃襲撃部隊として、松島基地に特別改造を行った陸上爆撃機銀河70機を集め、作戦を巨大化させた。また、一式陸攻搭乗員には、B29の日本本土への回航も任務としてあたえられた。

日本の海軍司令部は、アメリカの重巡洋艦のインディアナポリスが、原爆をテニアン基地に運ぶ計画を掴み警戒しており、日本の潜水艦は7月30日にインディアナポリスを撃沈したが、7月26日に、すでに原爆はテニアン基地に運び込まれていた。

広島に原爆が投下される8月6日、三沢飛行場では、剣作戦、烈作戦の総合演習が実施されることになっており、高松宮、海軍第三航空艦隊司令寺岡謹平中将など海軍首脳が三沢飛行場に入った。しかしこの日の朝、広島に原爆が投下された。この情報は当然三沢にももたらされただろうが、この作戦の緊急性、重要性が、衝撃的に受け止められたのだろう、この日の16時30分から18時30分にかけて、剣烈綜合演習は実施された。

三沢飛行場の滑走路は低空で飛来する銀河の爆音に包まれ、それがすむと、低空飛行の陸攻が次々に着陸、飛行機から降りた陸戦隊員は折畳み自転車に乗り、滑走路上に置かれた実物大B29の模型に吸着爆弾を取り付け破壊していった。演習終了後、明け方まで続けられた陸戦研究会では、テニアン島を出撃したと思われた原爆搭載機に対し、これを強奪して持ち帰る研究も行われたという。

この作戦の決行は、次の月明の8月19日前後と決定された。しかしアメリカは、日本のこの作戦を把握していたようで、8月9日、三沢飛行場は再びアメリカ軍の空襲を受け、一式陸攻のほとんどを失い、作戦は挫折し、決行できずに終わった。

三沢では他に、様々な特攻作戦が練られていたようで、土浦海軍航空隊よりの予科練生を中心とし、アメリカ本土へ潜水艦で潜入し攪乱する部隊や、合板で作ったボートでの体当たり部隊などの特攻の訓練が行われたようだ。

8月9日、2発目の原爆が長崎に投下され、8月15日、日本は無条件降伏した。

三沢の部隊も武装解除されることになったが、若い兵たちは憤激しこれを受け入れることができず、武装したまま上京しようとしたが、途中拘束され強制的に武装解除された。

三沢には米陸軍航空隊の施設部隊が移駐し、米陸軍航空隊のための飛行場として建設工事が行われた。昭和33年(1958)には、自衛隊の北部航空方面隊司令部が発足し、基地の共同使用が開始され、昭和36年(1961)に北部航空警戒管制団が配備され、アメリカ軍から航空警戒管制権を引き継いだ。

現在もアメリカ空軍の戦闘機部隊が駐留しており、主に、ロシアや北朝鮮への備えを行っているため、「北の槍」と呼称することもある。また軍民共用で、三沢空港が隣接し、同じ滑走路を使用している。

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