松尾芭蕉は、尊敬する西行の500回忌にあたる元禄2年(1689)、門人の曽良を伴い、「奥の細道」の旅に出た。
芭蕉はその序文の中で、「白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて」と書き、
草の戸も 住替る代ぞ ひなの家
の句を残し旅に出た。
芭蕉は、白河関を越えて奥州に入り、各地で名句を残した。旅の折り返し点の平泉では、藤原三代の栄華をしのび涙を流し、「夏草や 兵どもが 夢のあと」の句を詠み、出羽の山寺では、「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の聲」の句を残した。6月半ばには、「奥の細道」の最北の地となった象潟に到達した。
当時の象潟は、九十九島が海に浮かぶ松島と並ぶ景勝地で、たまたま曇り空だったこともあり、「松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し」と、その美しい風景を評した。また、中国越王勾踐の愛妾で、傾城の美女として国難を憂える越の家臣により殺され、水に沈められた悲劇の女性西施を思い、
象潟や 雨に西施が 合歓の花
の名句を残している。
芭蕉はここから美しい庄内海岸を南下し新潟へ向かうのだが、その間「奥の細道」への記載はなく、また一句も残していない。曽良日記を読めば、象潟では天気は良くなかったようだが、庄内海岸では、天気は非常に良かったようだ。美しい庄内海岸に心を動かされなかったはずはないのだが。思えば、象潟では名句を残した芭蕉が、「奥の細道」の序文に「松島の月先心にかゝりて」とその思いを書いた松島でも句を残さなかった。
芭蕉は「奥の細道」の本文の中で次のように書いている。
「月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ 」
「予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、松島の詩あり。原安適、松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解て、こよひの友とす」
芭蕉はこの旅の目的の一つでもあった「松島の月」を眺め、宿でもそれを眺めることができたようで、風と雲の中にじかに旅寝しているような気持になったようだ。そして曽良の句を書きながら、松島の月の光の中で感激し、句が出てこなかったようだ。一言でいえば、旅の初めに想像していた通り、「松島が美しすぎたから」ということだろう。
しかし、その芭蕉は、松島と比べても遜色のない美しさの象潟では、「西施」の名句を残している。その答えは本文中の「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし」の言葉にあると思われる。
芭蕉の句は、基本的には抒情句であり「ワビ、サビ」がその基本になっているように思う。象潟の「うらむがごとし」の様子は、「笑ふが如く」の松島よりも、芭蕉にとってははるかに句が作りやすかったのだろう。
鶴岡市の大山を出た芭蕉らは、現在の県道38号線を南下し、矢引峠を越え三瀬に抜けた。三瀬からは日本海の海岸線を通る羽州浜街道の奇岩と景観を望みながら温海へと向かった。この道は、古くは、源頼朝に追われた義経一行が、鼠ヶ関近辺に上陸し、芭蕉とは逆に平泉へ向かった道と伝えられる。
曽良日記には以下のように記されている。
「晴。大山ヲ立。酒田ヨリ浜中へ五リ近し。浜中ヨリ大山へ三リ近し。大山ヨリ三瀬へ三里十六丁、難所也。三瀬ヨリ温海へ三リ半。此内、小波渡 、大波渡、潟苔沢ノ辺ニ鬼かけ橋、立岩、色々ノ岩組景地有。」
浜街道はアップダウンが激しく、難所続きではあったが、天気も良かったようで、曽良は、その海岸線の景観を楽しみながら歩いた様子がうかがえるが芭蕉は無言のままだ。このときの芭蕉は、夏の暑さと持病がおき、それにこの旅の最遠の地からの帰路ということもあったのだろう、気力が失せていたようだ。
しかし越後の直江津の句会で、芭蕉の面目躍如の壮大な叙景の句が披露された。
荒海や 佐渡によこたふ 天河
松島や庄内海岸での、陰のない、青空を突き抜けるような壮大さや美しさの前では、言葉を失っていたかのような芭蕉は、象潟の「西施」の句以来の沈黙の後に、新しい叙景の句の境地を開いた。と思った。しかし…
夏の日本海は波も静かで「荒海」となることはまれであり、また曽良日記によれば、直江津までの越後道の旅は雨か曇り空で、星空が見えることはなかったようだ。また、天の川が最もよく見えるのは佐渡島と反対の方角であるらしい。
以前、あるテレビクルーが、花見の様子を撮影する際に、どうしても桜吹雪を撮りたかったようだ。そのため、クルーの一人が木に登り桜の木を揺さぶり桜の花を盛大に散らしそれを撮影し、後に問題になった。
私も歴史散策の旅で写真を撮るが、場合によっては実際の風景を多少捻じ曲げても、自分の構想に合わせた写真を撮りたい誘惑にかられることがある。「奥の細道」の中でも名句といわれるこの佐渡島の句は、「蕉風」に新たに加わった叙景の句の境地と思い、この稿の締めくくりとしようと思ったが、どうも芭蕉もまたその誘惑にかられたらしい。芭蕉の中では、佐渡島は荒海の中になければならないようだ。七夕の時期の天の川は、佐渡島の方向に横たわっていなければならなかったようだ。
放浪の大先輩として尊敬し、折あるごとにその足跡を追いかけていた者として、これはショックであり、この稿は没にしようと離れた。しかしそれでも思い直し、改めて調べなおし、今稿を進めている。
この佐渡島の句は、実は、それまで通りの「ワビ、サビ」を伴った抒情句ではないのかと考えたからだ。佐渡島は、順徳上皇や日蓮、世阿弥などが流された流刑地だった。芭蕉にとってその佐渡島を取り巻く海は、「荒海」でなければならないのだろう。また、七夕の時期には、天の川は牽牛と織女が出会う地でもある。もしかすると芭蕉は、天の川を渡り、荒海を超えて、順徳上皇や日蓮、世阿弥などを思ったのかもしれない。
そう考えれば、この佐渡島の句は、やはりそれまで通りの「蕉風」で語るべきもので、芭蕉の叙景句の新たな境地ではないのだろう。
やはり芭蕉は、壮大で青空に突き抜けるような美しい光景をその句に取り入れることは難しかったのかもしれない。そう考えれば、天気が良く、どこまでも美しいだけで、歴史や伝説の陰りもない庄内海岸を、句に詠むことはできなかったのだろう。また、「笑うがごとく」の松島では句を詠まず、「うらむがごとし」の象潟では「西施」の名句を詠んだ。
結局、芭蕉はその「蕉風」から抜け出ることはできなかったが、佐渡島の句は、「蕉風」を一段と高く押し上げたということかもしれない。