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斉藤元宏は、明治20年(1887)、酒田市(旧平田町)に生まれ、広島幼年学校、陸軍士官学校を経て、旭川歩兵第二十六連隊に配属された。後、中尉に進み陸軍大学に進んだが中退し、アジア平和の悲願から、満蒙独立運動に参画し、大正5年(1916)⒌月、ホロンバイルの激戦で戦死した。

日本の日露戦争における勝利は、西洋諸国により植民地化されていたアジアの国々に大きな影響を与えた。日本は西洋諸国による植民地化打倒の旗頭となるべくアジア諸国から期待された。日本では大東亜共栄圏を構想する者も多く、日本もアジア諸国から多くの留学生や王族を受け入れ、中国での辛亥革命、満蒙では民族独立運動を支援した。

しかし、大東亜共栄圏の理想とは別に、「満蒙は日本の生命線」として、満州、モンゴルを日本の支配下に組み込もうとする勢力もあり、満州、モンゴルの独立運動はこれらが渾然一体となり進んでいった。

大正元年(1911)、辛亥革命で清朝が完全に滅ぶと、粛親王らは北京を脱出し、日本陸軍の支援を受けて、満州で挙兵する準備を進めた。

粛親王をはじめとした清朝の皇族たちは、清朝を再興するため、日本の力を借りることで先祖伝来の満州の地にて蜂起、独立する計画を持っていた。日本政府も、彼らを支援し、満州と現在の中国内モンゴル自治区を中国政府から切り離して独立させることで、中国大陸へ進出するという野心を持っており、日本政府の支援を受けて満蒙独立運動は展開された。日本は多額の資金や武器弾薬を拠出したが、欧米各国は、この日本の動きに対して懸念の声を挙げ、日本は外交問題に発展することを恐れ、挙兵を中止させた。

この計画中止から3年後の大正3年(1914)、第一次世界大戦の最中に、中国では袁世凱が実権を握り皇帝に即位した。中国国内では打倒袁世凱の「第三革命」が起き、日本は中国に対して対華21ヶ条の要求を行い、第三革命に乗る形で内政干渉を行った。そして再び満蒙独立運動への支援を始めた。しかし袁世凱が急死し、袁世凱政権の打倒という大義名分を失ったことから日本政府は作戦を中止し、満蒙の独立をあきらめ、中国における親日的な政権を応援するという方針に変更され、満蒙独立を目指す勢力への支援は打ち切られた。

しかし、各地の部隊は動き始めており、斉藤元宏は、中国大陸における袁世凱打倒の第二革命運動に関心を持ち、粛親王らが結成した宗社党運動に共鳴。蒙古軍閥パブチャブ(巴布扎布)の招聘を受けて、陸軍大学校を中退し、内蒙古ハラハ(哈拉哈)河畔の軍本陣へ入った。

参謀長として民族開放の名の下にまさに義挙の大事に進発しようとする矢先に、自ら敵情視察のため興安嶺索倫方面に出撃したまま、消息を絶つ。遺体はついに発見されなかったが、弾痕血痕を残した衣類や帽子などの遺品が発見されるに及び、内蒙古トシイェトにて戦死したことが確認された。享年29歳だった。その後、日本は、斉藤元宏らの理想とは異なる形で満州事変、太平洋戦争へと突き進んでいく。

現在、酒田市の日和山公園に斉藤元宏の碑が建てられている。その碑は、昭和9年(1934)4月、満州国が建国されるにあたり、同期生の石原莞爾ら有志が建立したもので、表題は粛親王の書である。

満州国建国に尽力した石原莞爾(いしはらかんじ)の墓は、戦後の住まいがあったこの山形県遊佐町の地にある。

石原莞爾は、明治22年(1889)1月、現在の鶴岡市で、旧庄内藩士で警察署長だった石原啓介の三男として生まれた。父親の転勤の為、転住を重ね、幼年期は乱暴な性格であったという。しかし利発な一面もあり、小学校の一年生で一番の成績であり、特に読書や算数、作文の成績が優れていた。また病弱であったようだが、子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、将来の夢は陸軍大将になることだったと云う。

明治40年(1907)、陸軍士官学校に入学、学科成績は350名の中で3位だったが、区隊長らに対して反抗的だったと云う。士官学校卒業後は原隊に復帰、教官として非常に厳しい教育訓練を行った。明治44年(1911)、中国において孫文が大勝した報を聞いた時には、部下にその意義を説き、共に「支那革命万歳」と叫んだと云う。

大正4年(1915)陸軍大学校に入学し、戦術学、戦略、軍事史などの教育を施されたが、石原は膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を思想や宗教の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。大正7年(1918)に陸軍大学校を次席で卒業、その卒業論文は北越戦争を作戦的に研究した「長岡藩士河井継之助」であった。

その後ドイツへ留学、昭和3年(1928)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。ここでは、自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案、昭和6年(1931)に、板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。

満州事変をきっかけに「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし満州国を建国、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していった。その構想は、日本及び中国を父母とした独立国であり、また石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であった。

昭和12年(1937)の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長で、対ソ戦に備え満州での軍拡を目していた石原は、中国戦線拡大には反対だった。戦線が泥沼化することを予見し不拡大方針を唱え、当時関東軍参謀長東條英機ら陸軍中枢と対立し左遷された。また、石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視して、アジアの盟友を育てようと考えていたが、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿にした。東條も石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていたようで、結局、昭和16年(1941)には予備役へ編入された。

現役を退いた石原は昭和16年(1941)に立命館から国防学の講師として招かれ、大学で国防論、戦争史、国防経済論などの講義を担当した。太平洋戦争に対しては「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、ついに受け入れられることはなかった。

戦後、石原は東條と対立していたことが有利に働き、極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れた。戦後は東亜連盟を指導しながら言論活動を展開し、マッカーサーやトルーマンらを批判、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきだと主張したが、石原の満蒙独立運動などを考えるとき、奇異な思いもする。

日本の敗戦により大東亜共栄圏は崩壊し、オランダ、イギリス、フランスなどの旧宗主国が植民地支配の再開を図ったが、インドネシアやインドシナでは、日本占領下で創設された民族軍等が独立勢力として旧宗主国と戦い独立を果たすことになる。日本軍による占領をきっかけとする各民族の独立機運の高まりにより旧宗主国による植民地支配の終焉へとつながったとする見解もしばしば主張される。一方でフィリピンのフクバラハップやベトナムのベトミンのような現地住民による抗日ゲリラもしばしば発生しており、これらが後の独立運動に与えた影響も大きい。

実生活においては、自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、遊佐町西山開拓地に移り、同志と集団農場を運営し、共同生活を送った。昭和24年(1949)死去。享年60歳だった。