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羅須地人協会

小森林館を後にして、国道4号線を南下すると、じきに「羅須地人協会」の看板が目についた。私は、羅須地人協会が宮沢賢治ゆかりのものくらいの知識しかなく、これまでならスルーしていたかもしれなかったが、今回は、大迫の「猫の事務所」で、賢治の世界に少し触れ、興味を持っていたこともあり、寄ってみることにした。

場所は、花巻農業高校の敷地内だった。宮沢賢治は農業高校で教鞭をとっていたはずで、その農業高校がここなのだろう。校門を入ってすぐ右手に、「羅須地人協会」はあった。きれいに手入れされた芝生の庭の先に、賢治の像があり、その奥に古いが洒落た二階建ての建物がある。

宮沢賢治については、ごく浅い範囲でしか知らないが、なんとなく「ファンタジー童話作家」のようなイメージを持っていた。またその生き方は、童話作家としても、農業指導者としても、なにか中途半端なように感じていた。しかし、「猫の事務所」で、賢治の資料を見てから、自分の考えが少し違うかもと思い始めていた。そう思い始めていた矢先に、たまたま「羅須地人協会」に行き当たった。

賢治の像や、建物の写真をとり、勝手口にまわると、そこに小さな黒板が掛けてあり「下ノ、畑ニ居リマス」とあった。一瞬ドキッとした。本当に賢治は、下の畑にいるのかもしれない。この感覚が、賢治を考えるうえでのポイントかもしれないと漠然と思い、近いうちに、賢治の跡をたどろうと思った。

遠くで、高校生たちが練習しているのだろう、鬼剣舞の「ダーダーダー、ダースコダーダー」と太鼓の音が聞こえてきた。

神代の伝説の地のようだ…胡四王山

今回は花巻の市街地は避けて、花巻市の南外れを数箇所回りたいと思い、市街地の東側にある胡四王山に向った。

この「胡四王山」の名前には惹かれるものがあった。古に奥六郡を支配した安倍氏の祖の安倍比羅夫や大彦命に関わるものではないかと思ってのことだった。

この胡四王山は、市街地の間近にあるなだらかな山容の山で、この地の信仰の対象になっていたようだ。宮沢賢治もよく訪れた山のようで、山麓には「宮沢賢治記念館」や「宮沢賢治童話村」などがある。記念館に寄ってみようかとも思ったがやめた。興味は大いにあるのだが、宮沢賢治は、この地の「観光資源?」として、どこに行っても宮沢賢治だらけで、少しへそを曲げていた。

県道から小道に入り踏切を渡ると、すぐに「胡四王神社」の鳥居があった。途中まででも車で入れるかと思っていたが下から登らなければならないようだ。遠くから見た山容からすると、そこそこきつい登りになるようだ。この日も残暑がきびしい。

躊躇しながらもタオルを腰に下げ、ペットボトルの水を持ち、カメラを用意して上り始めた。この日は、猛暑の中4ヶ所目の山登りだ。多少ばてていたが、頂きに立てば、木々の間に色づいた稲田が眼下に広がり、時折ふっと秋の風が渡る。

頂の「胡四王神社」は、その昔は坂上田村麻呂に由来する薬師堂であったらしく、明治に廃仏毀釈の流れで神社になったようだ。その名の「胡四王神社」も地名の「胡四王山」からとったもののようで、安倍氏に関わる伝承はなかった。

「胡四王」は「越王」に通じ、北陸道から蝦夷制圧に秋田にいたり、秋田に多くの伝説を残す「大彦命」やその裔の「安倍比羅夫」に関わるのではないかと思う。この奥六郡を支配した安倍一族は、それを祖としていたはずで、この地の「胡四王山」にその伝承がないのは不思議であり、逆にそれがないことに不自然ささえ感じる。しかし時代は、神話の時代である。わからないものはわからないままにしておくしかないだろう。

頂からの眺めを楽しみながら水を飲み、汗を拭き、この山のもう一つの不思議の「胎内くぐり」をめざして山を下りた。胎内くぐりは、天岩戸を連想させる巨大な岩の亀裂だった。残念ながら逆光になり上手く写真に撮れない。太陽の光が岩の亀裂から差し込めば、それは神代の伝説の「女神降臨」となるかもしれない。

「胎内くぐり」の林から出ると、日は西に傾き始め、休耕地らしい畑からわずかに虫の声が聞こえていた。

完全な形で残る奥州街道の一里塚…成田一里塚

胡四王山歩きは思った以上に時間がかかり、夕暮れが迫っていた。厳しい残暑が続いていることもあり、夏と錯覚してしまうが、間違いなく季節は秋になっている。一頃は、午後6時過ぎても、まだ光はあふれ動き回ることができたが、今は、5時を過ぎると、そろそろ光は弱く、写真を撮る事は困難になってきているようだ。

この「成田一里塚」は、なかなか探せなく、ようやく着いたときには5時を過ぎ、夕暮れが始まっていた。日没は5時30分頃だろう、時間はあまりない。

成田一里塚は、かつての奥州街道の一里塚だが、現在の国道4号線の東、約1.5kmほどのところにあった。かつてのみちのくの大動脈は、今はひっそりとしたこの地の生活道路になっており、走る車もまれだ。

だからこそなのだろうが、この一里塚は、道をはさんで2基とも、ほぼ原型通り残っている。一里塚やその跡は、各地に史跡として残ってはいるが、これだけ完璧に近い形で残っているのは稀である。国道4号線が現在の地につけ替えされたのは明治になってからのようで、それまでの大動脈はこの地を通っていたのだ。

さらに地図で見ると、この道を1.5kmほど南下すると、中世のこの地の支配者だった、和賀氏の本拠城の二子城があったようだ。とすれば、この道は、奥州街道となるはるか以前から、この地の主要街道だったことになる。

日暮れの日の光の中の一里塚は、そのシルエットを美しく見せている。しかし、現代の旅人の多くは、国道4号線をただ走り抜けるだけで、この見事な一里塚を見る者は稀だろう。