2012/10/31

この日は、会津での仕事の前に、桧原湖周辺をまわろうと考えており、福島から深夜に車を走らせ、桧原湖畔の駐車場で仮眠をし、日の出前の薄暗闇の中で、撮影ポイントを探し行動を開始した。

薄闇の湖畔の道を二度ほど走り、湖岸に出る道を見つけ、靴紐を締め直しカメラと三脚を抱えて湖岸に出た。すぐさま三脚を立てて興奮の中で写真を撮り始めた。雲が低く垂れこめていたが、東の空のわずかな雲の切れ目から日が差し込み、雲を紫色に染めていく。紅葉の時期だが、沖の島は紫色に染まった東の空を背景に美しいシルエットを湖面に映している。

日が昇り三脚からカメラを外し撮影した写真は、すべてピンボケ。どうやらカメラの故障でオートフォーカス機能が働かなかったようだった。時間を巻き戻すことはできない。悔やんではみたがどうしようもない

中途半端な気持ちのまま、近辺にあるはずの五色沼に向かった。正式には五色沼湖沼群とよばれ、毘沙門沼、赤沼、みどろ沼、弁天沼、瑠璃沼、青沼など、桧原湖南側に点在する、大小30余りの湖沼からなる。この湖沼群は、桧原湖などのこの地域の湖と同様、明治21年(1888)の、磐梯山噴火の際に生じた岩なだれによるせき止めで生まれたという。

この地の沼はそれぞれに水質が微妙に異なり、そのためもあり水の色が異なって見えるらしい。しかしこの日は、小雨交じりの曇り空で、「五色沼」の色を楽しむことはできなかった。

その後桧原湖北岸に桧原城の上り口を見つけた。
桧原城は、米沢の伊達政宗が会津攻略のために築城した山城だ。なぜこの地なのかと地図で見ると、なるほどこの地は米沢から白布、桧原峠を経て会津に至る米沢街道が通っていたのだ。これまで、仕事で会津から米沢に抜けるには、国道121号線を利用しており、桧原峠越えはあまり考えたことがなかった。

この日は少し欲を出しすぎて、仕事までの時間が残り少ない。急いで攻城の準備をし城山を登り始めた。道は良く整備されている。ところが、始めこそ緩やかな山道だったが、次第に急斜面になり、途中目だった遺構もなく、つづら折りにこれでもかと険しい道が続く。途中の退却は男のプライドが許さない、とかなんとか思いながら、あえぎながら頂上近くの郭部に到達した。しかし喉はかわき、息は絶え絶えで、戦であればたちどころに伊達勢に討ち取られただろう。

この城の城域は非常に大きい。一部は、明治期の磐梯山の噴火によりできた桧原湖に沈んでいる。しかしその割には頂上部の郭群はさほど大きくはないようだ。実際には、山麓部の城に重きを置き、山頂部の郭群は詰の城的な役割だったのかもしれない。しかし山麓の城跡は現在は桧原湖中に眠っている。

伊達勢は、この城を拠点として、この地の葦名氏の将の穴沢氏を調略もしくは攻略しようとしたようだが、頑強な抵抗にあい、結局は会津攻めの拠点は猪苗代となり、摺上原の戦いに臨んだ。この城は、穴沢氏の拠点の戸山城とは2kmほどしか離れていない。当時は、非常に緊張状態にあった城だったはずだ。しかしあえぎながら登った道は、帰りには桧原湖周辺の紅葉の景色を林越に楽しませてくれる道になっていた。

この地は、戦国期の強兵として名高い穴沢氏が支配していた地で、その伝説が点在しているはずだ。しかし、仕事の合間での探訪は、今回はここまでが精いっぱいだ。いつになるかはわからないが再訪を期して、仕事モードに戻ることにした。