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南朝方の津軽への道筋か…御所館跡

前日は花巻に宿をとり、朝一番から周辺を歩き始めた。この日の最遠地の「志和稲荷神社」を手始めに、数ヶ所訪れ、ここから県道を東に入り、大迫まで主に稗貫氏の支城をいくつかまわるつもりだった。

中世にはこの地は花巻を本拠とした稗貫氏が支配していた。稗貫氏は、豊臣秀吉の奥州仕置で没落したために、その出自などは諸説あり定まってはいないようで、その事跡もまた定かではない。しかしこの地の「御所館」の「御所」の名前に興味があった。

地図を調べながら県道から細道を北に入り、ゆるゆると車を走らせていると、突然視線の上の岩上に「御所館」の標柱を見つけた。しかし説明板もなければ上り口らしい道もない。すぐ近くのお宅の庭先におばあちゃんがいらしたので尋ねると、その標柱の岩のところから上って行けるらしいが「熊が出るからやめた方が良い」という。

城跡めぐりでは、時折動物に出会うことはある。これまで鹿にも猿にもカモシカにも挨拶をしていたが、残念なことにというか、幸いにというべきか、熊にはまだ挨拶をすませてはいなかった。どうしても行きたいならと、おばあちゃんは岩にかける梯子を出してくれた。警告にしたがって、熊よけに携帯ラジオをならしながら上り始めた。

道らしい道はないが、それでも比較的藪は丈が低く、とにかく頂部へ向って上っていった。城館としては大きいものではなく、その構造も、舌状台地の先端を空堀で区画し、何段かの段築を設けたシンプルなものだった。館神らしい小さな社の脇から降りて戻ると、先ほどの家のおじいちゃんがいた。

挨拶をし梯子を片付けこの館の由緒をたずねると、この地区の区長さんが詳しいということで、わざわざそこに案内してくれた。地元に伝えられた話を地元の方から伺えるということは大変うれしく、特段の予定も立てていないことを良いことに、楽しい時間を過ごした。

残念ながら地元の伝承にも「御所」のいわれの確たるものはなかった。私の知る限りでは、東北地方の「御所」の地名や館名には、南朝方の親王や北畠氏に関わるものが多いと思っている。恐らくは霊山や宇津峰で敗れ劣勢になった北畠氏らが、稗貫氏や南部氏らの保護を受けながら、青森の浪岡御所に落ち着くまでの経路なのかも知れないと考えた。いずれにしても私の中で歴史の謎がまた一つ増えてしまった。

宮沢賢治の猫の事務所…旧稗貫郡役所

この大迫に旧稗貫郡役所が復元されていた。稗貫郡の中心地は花巻であるはずで、「何故?」と思い説明板を見たら、やはり郡役所の元の場所は現在の花巻市の市街地だったようだ。この地には宮沢賢治に因む場所が多くあり、この郡役所も賢治の作品の「猫の事務所」のモデルだと云い、その縁からこの地に復元したらしい。

宮沢賢治は花巻市で生まれ育ち、主に花巻市周辺をまわり、それを素材にして多くの童話を残した。この大迫は、早池峰信仰の拠点であり、早池峰神楽が有名である。山々がせまり、早池峰山は勿論のこと、町の周辺の山にも不思議な伝説が伝えられている。この地で地質調査を行った宮沢賢治が、それらの山の民の伝説に触れて、その後の童話の世界を形成していったのだろう。

この郡役所は、宮沢賢治を中心とした資料館になっており、幾組かの賢治ファンと思われる観光客が訪れていた。木造の洋風二階建ての建物だが、他の地域の郡役所と比較してもかなり小さい。いかにも「猫の事務所」にふさわしい。

実は私は、賢治の作品の主なものの概要は知っているが、直接作品を読んだことはない。そのため、今回の旅では、この大迫の地を中心にしての、賢治の作品を辿る予定はなかった。

しかし、資料館で、賢治の世界に触れその後を辿りたくなったが、次の機会にゆずることにした。実はこの地にはその他に早池峰山や早池峰神社などまわりたい地があるのだが、行程の関係で我慢することにしていた。今回の大迫のメインは、この地の大迫氏の居城の大迫城跡だった。

冬の布団のぬくもりから離れ難いような女々しい気持ちで、資料館の近場の旅館跡などの写真を撮り、次の地へ向った。

今に残る稗貫氏の境の城…小森林館跡

大迫城跡では、夏草が生い茂る中、上り口を見つけることもできず、地元の方に伺ってもわからず、結局城山の遠景だけをカメラに収め、無念の撤退となった。

大迫から県道を走り「八重幡館跡」など数ヶ所をまわり、国道4号線に出ると、花巻空港のすぐ北側に抜けた。国道を少し北上し、小森林館跡を目指した。

小森林館跡は、国道4号線のすぐわきにあり、前々回の津軽半島周遊の帰り道で見つけたものだ。しかし夕方で、また国道4号線からざっと眺めただけで、たいして見所もない城のようでありスルーしていた。

しかし、この日の朝に訪れた「御所館」で、親切にしていただいたおじいちゃんの姓が、この「小森林館」に縁があるようで、そのお礼の気持ちもあり寄ってみることにした。

国道脇の自動精米所がある小さな空き地に「小森林館」の説明板がある。そこに車を停めて説明板を見たが、残念ながら縄張り図のようなものはなく、それでもおおよその見当をつけて城域に踏み込んだ。

実はさほどの期待はしていなかった。国道4号線のすぐ脇で、周囲は開発もそれなりに進んでおり、比高もさほどなく、遠目では藪に埋もれた雑木林のように見えた。しかし、一歩踏み込むと、そこには台地を区画する巨大な堀跡があった。水堀だったのかもしれない。確かに未整備の館跡ではあるが、郭内には小さな祠があり、どなたかがそれなりに草を刈り手入れをしていただいているようだ。

この地域は、稗貫氏と和賀氏の境になるはずだ。恐らくは和賀氏との争いの地だったろう。しかし稗貫氏、和賀氏は、奥州仕置ではなす術もなく領地を没収され、その後の一揆も仕置軍に一蹴され、最後は南部氏によって完膚なきまでに叩きのめされた。この館も、その時代の渦に飲み込まれたのだろう。

城域を歩き回る内に、前に取材した「逆さヒバ」の所に出た。このヒバの根元からは清水が湧き出し、観音堂があったらしい。この地はこの小森林館の水場であり、館神が置かれた地ということになりそうだ。

逆さヒバは、奥州街道の名物だった名木だ。とすると江戸時代初頭からこの城域には開発の圧力があったはずだ。それがよくもこれまでこの状態で残っていたものだ。恐らくは稗貫氏の流れを汲む方達が、観音堂と逆さヒバを心の支えとして守ってきたのかもしれない。

国道4号線のすぐ脇にあり、都市化が進むこの地は、平城であることもあり、開発の手が入れば跡形もなく消えるだろう。出来るならばそうなる前に、この地の形状を変えることなく整備し、長く後世に残してもらいたいものと思った。