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源平合戦後、源義経は兄の頼朝と対立し、京の都を落ちて九州へ向かった。このとき、静御前は同行するが、義経主従の船は嵐に遭難し、岸へ戻されてしまった。やむなく静御前は、後日の再会を約し、吉野で義経と別れ京へ戻った。

しかし途中で従者に持ち物を奪われ、山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186)、母の磯禅師とともに鎌倉に送られた。

静は頼朝に、鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。静は、
 しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
と義経を慕う歌を唄い、頼朝は激怒したが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けたとされる。

『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。

静御前は、この時、義経の子を身ごもっており、頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じた。月満ちて、静は男子を産んだ。頼朝の家人が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子を取り上げて家人に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。

その後、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が、多くの重宝を持たせたという。

この「吾妻鏡」の記述が、歴史上の「定説」であり、その後の消息は不明である。

しかし、静御前の悲劇は伝説となり、源義経の伝説とともに、全国各地に広がっている。この福島県郡山市にも、静御前堂を中心に次のような伝説が伝えられている。

静御前は、源頼朝に追われ奥州に下った義経を慕い、そのあとを追い北に向かった。郡山に入る峠では、従者の小六が病で倒れ、乳母のさいはらと二人で、ようやくの思いで郡山の地までたどりついた。

しかし郡山にいると聞いていた義経は既に平泉に発ったあとだった。里人に聞けば、平泉までの道のりはまだはるかに遠かった。頼りにしていた従者の小六に先立たれ、静御前主従は途方にくれ、静は乳母と二人、近くのかつぎ沼にかつぎを捨て、美女沼に身を投じた。

静御前の短い命をあわれんだ里人達は、主従の霊を弔い、一堂を建ててこれを供養したという。

また、この地には次のようにも伝えられる。

源義経は、兄の頼朝に都を追われ、平泉へと落ち延びた。義経の恋人静は、従者の小六と乳母のさいはらを共として、郡山の大槻町花輪に辿り着いたが、義経はさらに遠い北の平泉の地だという。その上、従者の小六が亡くなり静御前主従は途方にくれてしまった。

これをみかねたこの地の「花輪長者」の世話で、静御前は針仕事などを教えながら平泉に行く準備を進めた。

しかしその内に「義経が討たれた」という知らせが届けられ、静御前は悲しみに暮れ、乳母のさいはらとともに池に身を投げてしまった。里人はこの美しい舞姫を哀れみ御堂を建てその霊を祀った。

その後、戦国の時代、この地に毎夜怪しげな光が出て村人を恐れさせたので、時のこの地の領主の伊東高行が光の正体をつきとめようとその場所を掘ると、地中から古碑が現れ、それは静御前の墓石だった。このため高行は堂を再建し静御前の霊を手厚く供養した。

現在の御堂は江戸期の天明3年(1783)に再々建されたもの。境内には静御前の供をしてこの地で果てた二人の従者「乳母さいはら」と「小六の碑」も祀られている。



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