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鎌倉の二階堂氏の嫡流は、為氏が幼くして跡を継ぎ、須賀川は治部大輔行続がそのまま代官として治めていた。しかし、行続は専横の事が多く、鎌倉にいた為氏の意にも従わなくなった。そのため為氏は、みずから須賀川に下向することに決し、二階堂為氏は、文安元年(1444)須賀川に下向し、命令に従わない、治部大輔行続を須賀川城に攻め、須賀川二階堂氏の初代当主となった。

伊達氏の内紛の天文の乱の際には、二階堂氏は伊達稙宗に加担し、田村、葦名氏らとともに晴宗と戦った。この乱の過程で、会津の葦名氏が勢力を拡大し、その勢力は結城白河氏、二階堂氏、畠山氏、田村氏の諸氏にも及んだ。

二階堂氏も、弘治2年(1556)、内紛が続く結城白河氏を攻め破ったが、永禄2年(1559)には逆に白河勢の反撃にあい須賀川まで迫られ和を講じた。このような混乱の中、常陸の佐竹氏が南奥に勢力を伸ばし、仙道進出を目論んだ軍事行動を開始した。二階堂氏は佐竹氏と手を結び、佐竹氏は赤館を落とし、ついに白川本城をも攻略した。

この時期の南奥の諸勢力は、それぞれの家が縁組みで結ばれ姻戚関係にあり、それが中世的な馴れ合いを生んでいた。二階堂氏も、盛義の室は伊達晴宗の長女の阿南姫である。姫の兄は岩城氏に養子に入った岩城親隆で、弟が伊達輝宗で伊達政宗は甥にあたる。

永禄8年(1565)、二階堂盛義は葦名盛氏と戦い敗れ、長男平四郎が人質として葦名氏の黒川城に入った。二階堂氏は葦名氏の後ろ盾を得て、田村氏領である三春攻撃を企てるなど、二階堂氏の威勢はにわかに高まった。しかし、天正3年(1575)に盛氏に先立って後継の盛興が死去した。

盛興の正室は、伊達晴宗の娘の彦姫で、阿南姫の妹だった。盛氏は二階堂氏から人質にきていた盛隆を、未亡人の彦姫と結婚させ当主にすえ、この後継問題の行く末を案じながら、天正8年(1580)60歳で没した。

しかし二階堂氏でも、阿南姫の夫の二階堂盛義が天正9年(1581)病死、阿南姫は尼となり大乗院と号した。家督は次男の行親が継いだが、天正10年(1582)にその行親が急死、葦名氏を継いだ盛隆が二階堂氏の家政も取り仕切った。ところが、盛隆は、男色や酒におぼれるなどあまり評判は良くなかったようで、天正12年(1584)には、男色関係のもつれから近習に斬り殺されてしまった。以後、須賀川城は大乗院が守り、家老須田盛秀が城代を努めた。

そのような状況の中、伊達氏を継いだ政宗による小手森城攻めでのなで斬りや、降伏した二本松に対する過酷な要求などは、南奥諸将を震え上がらせ、これまでの複雑に入り組んだ姻戚関係の中で、争乱と和平を繰り返してきたぬるま湯的状況が通用しないことを思い知らされた。そして二本松義継により、大乗院の弟にあたる伊達輝宗が拉致殺害されるという事件が起き、南奥は一気に流動的になった。

混乱の中、伊達政宗が二本松攻めを始めたのを機に、佐竹義重が本格的に奥州介入を始め、政宗の岳父の田村氏以外の南奥諸将は佐竹氏に与した。二階堂氏も、佐竹義重の室は大乗院の妹であり、葦名氏の当主の亀王丸は、妹の彦姫と、自身の子の盛隆との子で、孫にあたることもあり、佐竹氏、葦名氏側についた。

伊達・田村連合軍約8千と佐竹・葦名・南奥諸将連合軍約3万は、人取橋で激突。圧倒的に佐竹・葦名勢が有利だったが、激戦の中、盟主の佐竹義重が、関東の状況で翌日早朝に撤退し、伊達政宗は勝ちを拾った。

この戦いを手始めに、伊達政宗は会津制覇と仙道制覇に乗り出し、南奥諸将も次々と伊達陣営へと加わっていった。伊達勢は天正16年(1588)には郡山合戦に勝利し、翌天正17年(1588)には、摺上原の戦いで大名としての葦名氏は滅亡した。

この状況の中では、伊達による仙道制覇は動かし難いものと思われた。政宗は二階堂の重臣らに内通を促し、叔母の大乗院にもさかんに降伏するように迫った。佐竹氏は関東の状況で、大軍を割くことはできず、南奥諸将は、すでに伊達陣営にあるか、及び腰で、政治的にはすでに雌雄は決していた。恐らく政宗は、大乗院が降伏するのは時間の問題だと思っていただろう。しかし女城主の大乗院は、政治的判断ではなく、籠城玉砕の情緒的な判断を下した。政宗も大乗院の決意が固いことを知り、ついに攻撃を開始した。

伊達勢は須賀川を東西に流れる釈迦堂川左岸に兵を配置。岩城氏や佐竹氏の援軍を得た二階堂勢は釈迦堂川右岸に陣を敷いた。死を覚悟した二階堂勢の勢いはすさまじく、城からうって出て伊達勢に突入、数に勝る伊達勢は新手を次々繰り出すが、二階堂勢も一歩も引かず死闘となった。

伊達勢は部隊を退却させ、追撃してくる二階堂勢を取り囲み一網打尽にしようとしたが、二階堂勢の意気は盛んで、退却する伊達勢を一気呵成に押し込み、伊達勢をさんざん討ち取り、さっと引き揚げ伊達勢の犠牲は増えるばかりだった。

しかしそれでも多勢に無勢、二階堂勢に疲れの色が見え始めた頃、二階堂勢の内応者が城下町や寺に火をかけ、火はほどなく城にも延焼し、須賀川城は落城した。支城の八幡埼城も伊達勢をひきつけ激戦となっていた。鉄砲三百挺と佐竹氏の援軍が籠り、最後の一兵まで戦ったと伝えられる。

城主の大乗院は、政宗の命で須賀川城に潜入していた忍に城外に連れ出され、伊達の陣に捕らわれた。城は落城したが、残存兵や領民が松明をかざして、かつての二階堂氏の本拠城があった愛宕山にぞくぞくと集まるなど不穏な情勢が続いていた。政宗は大乗院を丁重に迎え、戦後処理に利用しようとしたのだろうが、大乗院は強く拒否し、政宗の制止を振り切り、実兄のいる岩城家に落ち延びた。

しかしその岩城家も、伊達氏の傘下に組み込まれ、大乗院は末の妹が嫁いだ水戸の佐竹家をたより移り住んだ。

その後、関ヶ原合戦後、佐竹氏は秋田へ移封することになり、大乗院もそれに同行したが途中病にかかり、須賀川に戻りまもなく亡くなったと伝えられる。

現在、須賀川では、領民らが松明を手に愛宕山に集まった故事に倣い、落城した際の戦死者の霊を弔う鎮魂の行事として「松明あかし」が行われており、二階堂氏の意地と誇りを今に伝えている。

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