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秋田県鹿角市の「錦木塚」にまつわる「錦木」「けふの細布」は、平安後期の歌枕として詠まれ、また世阿弥の謡曲「錦木」の題材ともなっている。現在は小公園として整備され、塚はその奥まった一角に大事に保存されている。

錦木は たてなからこそ 朽にけれ
けふの細布 むねあはしとや   …能因法師

今から千数百年ほど前、この地一帯は、都から来た狭名大夫(さなのきみ)が治めていた。その八代目の狭名大海(おおみ)には美しい娘がいて、名を政子といった。姫は狭布(けふ)の細布を織るのがとても上手だった。

この地の東に草木の里と呼ばれる地があり、この里長の子に錦木を商っている黒沢万寿(まんじゅ)という若者がいた。ある日万寿は、この地の市で政子姫を見かけ好きになってしまった。当時、男は女を妻にしたいと思うと、その女の家の前に錦木を立てる慣わしがあった。それを女が家の中に取り入れると、嫁いでも良いということだった。

若者は、錦木を姫の家の前へ、雨の日も大風の日も、吹雪く日も毎日立て続けた。政子姫は機織りする手を休めて、そっと若者の姿を見ているうちに、政子姫もまた若者に思いを寄せるようになったが、錦木は取り入れられなかった。父が身分の違いを理由に反対したためであった。

しかし姫にはもう一つの理由があった。この地方の五の宮岳の頂上に大鷲が住んでおり、付近の村から幼い子たちをさらっていた。ある時、托鉢に立ち寄った旅の僧は、若い夫婦がわが子を失い泣いていたので、そのわけを聞き、鳥の毛を混ぜた布を織って着せれば、鷲は子供をさらうことはないと教えてくれた。

しかし、鳥毛をまぜた布は、よほど機織りが上手でなければ作れなかった。政子姫は、みんなから頼まれ、親の悲しみを自分のことのように思い、三年三月の間観音様に願をかけ、身を清めて布を織っていたのである。そのために、布ができるまでは嫁に行くという約束は出来なかった。

若者はそうとも知らずに、あと一日で千束になるという日、女の家の門前で、降り積もった雪の中でかえらぬ人となった。姫もそれから間もなく、布を織り終えると、若者の後を追うようにこの世を去った。姫の父は、この二人をあわれに思い、姫と若者を、千束の錦木といっしょに、一つの墓に夫婦として葬った。その墓が「錦木塚」と伝えられている。

これを題材とした世阿弥の謡曲「錦木」では、

旅の僧が、陸奥の狭布の里で、女は細布を、男は錦木を売る夫婦に会った。この細布と錦木のいわれを尋ねると、細布とは鳥の羽を混ぜて織った布で、実らぬ恋の思いに例えたもので、錦木は女の家の門に立てて求婚のしるしにする彩色の木であると答え、錦木塚に案内して二人はその中に消えた。

旅の僧が、その塚を弔っていると夢にその二人が現れ、過ちを悔い改める物語をし、仏の救いを得た悦びの舞を舞った。明方になり僧の夢は覚め、二人の姿は消え失せた。

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