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南北朝期からの津軽の名家の北畠氏は、天正6年(1578)、大浦為信の攻撃の前にあっけなく滅亡し、ここまでの騒乱で、津軽・外ヶ浜地方の大勢は大浦為信の下で決した。すでに津軽地方で組織的に為信の津軽独立を阻むものはいなかった。しかし、南部氏は一族間の騒乱に悩まされながらも失地回復を狙っており、また、かつて南部氏により津軽から追い出された桧山安東氏もまた、津軽への侵攻を企図していた。

この時期、大光寺城の戦いで、一度は大浦勢の大軍を相手にし撃退したものの、その後の戦いで敗れた剛勇の将滝本重行は、桧山安東氏のもとに逃れていた。

天正7年(1579)7月、重行は安東氏の命を受け、比山六郎、七郎兄弟らと津軽に侵攻した。その軍勢には、重行のほかに、為信に城を追われた北畠顕則らも加わり、また浅利氏や、大鰐、碇ヶ関方面の一揆衆の協力もあり、軍勢は1千に膨れ上がった。軍勢は滝本重行因縁の地の乳井地区に攻め込み、城主の乳井建清が留守だったこともあり、乳井城、乳井茶臼館、乳井古館を落とした。

その後、急遽駆け付けた大浦勢と、現在の平川市の六羽川の畔で激突した。安東勢は占領した乳井茶臼館を本陣とし、大浦勢は大坊岩館に本陣を置いた。戦いは激戦で夕暮れまで続き、安東勢は果敢に為信本陣まで攻め込み、為信本陣の旗本も多くが討ち死にした。

このとき、大浦氏の家臣で、為信の馬添役だった田中太郎五郎は、為信の身代わりとなり突撃、全身に銃弾を浴びて討ち死にした。これにより、為信を討ち取ったと思い込み油断した安東勢に隙が生まれ、大浦勢はその隙をつき突撃を敢行し、これにより安東勢は総崩れとなった。

南部氏も手をこまねいているだけではなかった。三戸城の南部信直は、天正13年(1585)4月、東政勝を攻手として、3千の軍勢で浅瀬石城を攻撃した。浅瀬石城の千徳氏は、かつては南部氏の一族として石川高信を補佐し、津軽を支配していたが、大浦為信との津軽二分の密約により、大浦氏と行動を共にしていた。南部勢は千徳氏によって撃退されたが、この時、大浦為信は浅瀬石城に援軍を送らず、このことが後年、千徳氏と津軽氏の不和の原因になったという。

この千徳氏の一族で、田舎館城主の千徳政武は、宗家の意向に反し、南部氏への忠義を貫いていた。しかしこの南部勢の敗退により田舎館城は孤立無援となってしまった。大浦為信は、翌5月に3千の軍を率いて出陣し田舎館城を攻めた。千徳政武は3百の城兵で籠城したが、衆寡敵せず玉砕し、政武は自害した。この時、政武の妻の於市は、共に自害しようとしたが政武はこれを許さず、於市は城から落ち延びた。

その後、慶長6年(1601)、徳川の世となり、為信は津軽統一戦争で討ち死にした者達を、敵味方の別なく供養するための法要をとりおこなった。その時、この於市が為信の前に進み出て、短剣で自らを突き刺し自害したと云う。

天正6年(1578)の浪岡北畠氏が滅亡後は、津軽地方はほぼ大浦為信に服したが、現在の五所川原市の飯詰城の朝日氏は、領民や蝦夷軍とともに数度の合戦で大浦氏を退けていた。朝日氏は、南北朝期の北畠氏と並ぶ名家の藤原藤房を祖としていた。安東氏とも近く、北畠氏にも与力していた。

天正16年(1588)、為信は、津軽統一の最後の仕上げとして飯詰城に大軍を向けた。朝日氏十代当主の左衛門尉行安は大浦勢に徹底抗戦し、大浦勢は、水脈を断って飯詰城を包囲した。朝日勢は玉砕を覚悟して、老人女子供を逃し、残余の270余名が籠城し抵抗したがあえなく落城し、朝日行安は自害し朝日氏は滅亡した。この飯詰城が落城した事により、大浦為信の津軽統一は完成した。

この時期には、南部氏の継嗣を巡っての争いは、南部氏一族を二つに割って、南部信直と九戸政実の間でのっぴきならないものになっており、津軽奪還に兵を向ける余力はすでになかった。

しかし為信にとっての津軽独立はまだ完成に到ってはいなかった。為信は、南部氏や安東氏に対して、独立勢力として並び立つためには、中央の豊臣政権に対する工作が必要と考えていた。為信は度々上洛を試みており、天正13年(1585)には鰺ヶ沢より海路出帆したが、暴風に巻き込まれ松前沖まで流され、天正14年(1586)は矢立峠を越えるルートを試みるが比内の浅利氏の妨害で果たせず、天正15年(1587)には兵2千と共に南部領を突っ切ろうとするが南部氏に妨げられ、天正16年(1588)には秋田口から進んだが安東氏に阻まれた。

天正17年(1589)、為信は安東実季と和睦し、家臣を上洛させることができ、石田三成を介して豊臣秀吉に名馬と鷹を献上、津軽三郡、ならびに合浦一円の所領を安堵された。さらに、天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐の際には為信自身が家臣18騎を連れていち早く駆け付け、小田原へ東下する秀吉に謁見した。

一方南部信直は、前田利家を頼って、為信を惣無事令に違反する逆徒として喧伝し秀吉に訴えたが、早くから豊臣政権に恭順の意を示すなどの工作や、南部信直の小田原参陣の前月には秀吉に謁見を果たし、鷹狩の好きな石田三成、羽柴秀次、織田信雄らに、津軽特産の鷹を贈るなどの工作が功を奏し、南部氏の主張は認められなかった。

また、大浦政信が近衛尚通の落胤だという伝承にちなみ、為信は早くから近衛家に接近して折々に金品や米などの贈物をしており、上洛した際に元関白近衛前久を訪れ、前久は、為信からの財政支援を受けて為信を猶子にし、近衛家紋の牡丹に因む杏葉牡丹の使用を許した。これにより、形式上は、秀吉と為信は義兄弟となった。

これらの為信の外交努力により、大浦氏は南部氏から独立した勢力として正式に認知された。しかし、浅瀬石城の千徳氏は、領地を減じられ、家臣を150人まで減らし、為信の支配下に入るよう命じられた。為信の動きに疑惑を持っていた千徳政康はこれを不服として、大浦氏と臨戦状態に入った。

慶長2年(1597)、大浦勢は2千5百の軍勢で浅瀬石城を攻撃、政康ら千徳勢2千の城兵は大浦勢に三度突入して三度撃退したが、惣無事令に違背するこの戦いは千徳氏にとって無謀ともいえるもので、千徳氏の家臣団は分裂し、為信派の千徳氏重臣らが城を急襲し、大浦勢の総攻撃によりついに落城し政康は自害した。

大浦氏は、豊臣政権から、津軽、外ヶ浜、糠部の一部を安堵され、姓を大浦から津軽と改称し、津軽の独立を果たした。しかし、この独立は、南部氏との間に遺恨として残り、その後、江戸時代を通じて、何かと言えば津軽と南部は争うようになる。

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