元和8年(1622)最上騒動により最上山形藩が改易となり、その旧領は細分化され、鶴岡には、譜代大名の酒井氏が13万8000石で庄内に入部、庄内藩を立藩した。
酒井氏は徳川家康の譜代の重臣であり、徳川家康に仕えた酒井忠次の父から系譜が書かれているが、その間の系譜は定かではない。永禄7年(1564)に、忠次は家康より三河吉田城主に取り立てられ、家康が三河を支配する過程で、東三河は忠次が旗頭に任命されて支配した。忠次の子家次の代の天正18年(1590)に、家康が関東に移ると、家次も関東へ移り、下総国臼井城主となり、3万石を領した。
関ヶ原の戦い後、元和2年(1616)には、越後国高田藩10万石に移封された。元和8年(1622)、家次の子酒井忠勝の時の元和8年(1622)13万8000石で出羽国庄内藩に移封された。
鶴岡市の山王日枝神社の境内には、徳川家康の長男の、松平信康の霊を弔うために、酒井氏により復鎮霊社が祀られている。
酒井氏の祖の酒井忠次は、徳川四天王の筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。しかし、徳川家康の嫡男の信康が自害に至った事件においては、信康を救えなかったことが大きなトラウマになったようだ。
信康の母は、家康の正室の築山殿(瀬名姫)で今川義元の姪にあたる。妻は織田信長の娘の徳姫であり、当時の松平宗家の居城である岡崎城主を務めていた。信康は天正3年(1575)17歳で初陣を長篠合戦で飾り、その後も武田氏との戦いでいくつもの軍功を挙げるなど、岡崎衆を率いて家康をよく補佐したというが、これは、譜代の岡崎宗が信康を良く支えていたということだろう。
信康の母の築山殿は、今川の血を引いており、今川を滅亡に追い込んだ信長の娘である信康正室の徳姫とは折り合いが悪く、徳姫は信康とも不和になり、天正7年(1579)、父信長に対して十二箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣酒井忠次に託した。
この徳姫の書状の内容は、『松平記』によると、「信康は、鷹狩で獲物がなかったのを出逢った僧のせいにし、その僧の首と馬を縄で繋ぎ、馬を走らせて殺した」など信康の非道な行いをあげつらっており、また 、徳姫が女子しか生んでないことから、「男子は妾に生ませればよい」として、築山殿が武田関係者の妾を用意したとあり、また「築山殿は浮気相手の医師の減敬(滅敬)を通して武田と繋がっている」などとあり、岡崎と武田勝頼との接近を疑わせるものだった。
この当時、徳川家康は浜松にあり、松平信康は岡崎にあり、家臣団も浜松派と岡崎派とに割れていたようだ。そのような中で、天正3年(1575)、信康の側近の大岡弥四郎が、武田勝頼に内通して武田軍を岡崎へ引き入れようとする謀反を企てたとされ、大岡弥四郎らは捕らえられ処刑された。
この当時、家康は武田氏の反攻に手を焼いていた。長篠の合戦の大敗により勢力に陰りが見えた武田氏だったが、武田勝頼のもと、まだまだ強大な勢力を有していた。岡崎派は勝頼と結び、家康と信長の同盟に亀裂を生じさせ、新たな徳川体制を築こうとしたのだろう。
NHKの大河ドラマ「どうする家康」では、築山殿は戦のない世を願い、徳川家康と武田勝頼との同盟を画策したかのように描いていたが、これは現代の「お花畑平和主義」に通じる物のようで、悪妻悪女のイメージの築山殿を悲劇の女性とするための「創作」と思われる。
現代でも「平和主義」の理念だけで平和が達成できるものではなく、政治や経済、軍事力のバランスの上に成り立つもので、ましてや戦国時代の、徳川、武田、織田に関わる信康事件は、ドラマで描かれている築山殿の理念が破綻したものだろう。
徳姫の父信長に対しての十二箇条の手紙の内容については、信長が見逃せなかったのは「武田氏と内通している」という記述だろう。また、酒井忠次らの譜代の重臣らは、徳川が割れて、武田と結び付いたとしても、強大な織田勢力に対抗できるとは考えられなかっただろう。それは、徳川家康もまた同じ思いだったろう。
家康も酒井忠次も、信康を守りたい思いは同じだったろうが、大岡弥四郎事件から見えた、徳川家臣団の浜松派と岡崎派との対立構図と、築山殿と武田関係者とのつながりは、徳川にとって危ういものと見えただろう。
徳姫の十二箇条の手紙を持たされた酒井忠次に対して、信長はその内容を1つひとつ、忠次に確認したという。これに対して、徳川の分裂を恐れる忠次は、築山殿と岡崎派家臣団の動向について認めるしかなかったのだろう。
信長はこれに対して、徳川の家中の問題として、その処理を徳川に任せるとしたようだが、この問題は、徳川と織田の同盟破棄につながるものでもあり、家康にしても、築山殿と信康に対して何らかの処分を行わざるを得なかった。
家康は妻・築山殿の処分を決め、現在の浜松市中区の佐鳴湖付近で、築山殿は徳川家臣に自害を迫られたが、それを拒み、首をはねられ殺害された。築山殿は、武田氏との接触は、徳川の為という思いがあったのだろう。
それでも家康は、信康はなんとか助けようとしたようで、8月3日に岡崎城に出向き信康と対面、その後、信康を岡崎城から大浜城や堀江城に移し、最終的には二俣城に移し、9月15日、信康は二俣城で自害する。享年21歳だった。この間、家康は信康を救うべく動いたと思われる。
家康は信康の死を深く悲しみ、関ヶ原の戦いで徳川秀忠が遅参したとき「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ」と言ったとか、酒井忠次が嫡男の家次の所領に対する不満を訴え出た所、「お前も我が子が可愛いか」ときつい嫌味を返したという逸話が残っている。
いずれにしても真実は闇の中であるが、この事件に深く関わった酒井氏は、徳川政権の下で、なんらかの負い目を感じていたのだろう。庄内に移封後の貞享2年(1685)、幕府をはばかるように社を建て「復鎮霊社」と称した。