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大浦氏が鰺ヶ沢の種里城から、津軽平野に大きく進出する形で大浦城に進出したことで、従来の南部氏勢力は緊張を高め、南部宗家は、天文2年(1533)、三戸南部氏きっての有力者である南部高信が津軽地方に入り、平賀、田舎、沖法の三郡を支配下に置き、石川城を居城とした。高信はその後石川を名乗り、石川高信と呼ばれ、三戸南部氏からこの地の支配を任された。また、大光寺、浅瀬石、和徳の諸城を津軽氏に対する押さえとし布陣を固め、大浦氏と南部氏の津軽をめぐる緊張は高まっていった。

この当時南部氏は、南部晴政と、石川高信の子で晴政の娘婿である信直の対立が目立ち始めていた。大浦(津軽)為信はこの期に乗じ、津軽独立に動き始めた。為信は、元亀2年(1571)、石川高信に接近し、石川城に近い大浦氏の支城の堀越城の改修を願い出て、石川高信はそれを許した。

しかし、為信の目的は別にあり、城の改修の為と見せかけ、兵糧や武具を運び込み、大工や人夫に見せかけ兵を引き入れた。そして堀越城修築の祝宴を大浦城で行う旨を高信に伝え、高信の重臣らを招いた。為信は高信の重臣らを監禁し、その夜に兵を挙げ石川城を急襲した。重臣らが監禁された中で、城を守る者はごく少数で、高信は防戦したが敵わず、妻子共々自害して果てたという。

為信の動きは素早かった。大浦勢はその日のうちに和徳城に押し寄せ三方から攻め立てた。和徳城は、清原氏の流れを汲むという小山内氏が南部氏に従い和徳城の城主となっていた。和徳城は、大浦氏にとって因縁の城でもあり、大浦氏三代の政信は、和徳城主小山内永春と戦い討死にしている。和徳勢は城を打って出て応戦したが一人残らず討ち取られ、城兵の多くも討ち取られ、和徳城主の讃岐守は自刃し、さらに隠居していた永春も討死し和徳城は落城した。

石川城の東に、古くは乳井氏が支配していた乳井地区があり、かつて当主の乳井玄蕃は、南部氏の代官滝本重行に暗殺され、南部氏の支配するところとなっていた。しかし大浦為信の蜂起で、玄蕃のあとを継いだ乳井建清は大浦勢に呼応し、高畑城の滝本重行を攻め、大浦側につき、その後、為信と行動を共にする。

これに対し、南部氏側もすぐに手を打ち、南部信直は鹿角・花輪の兵をもって、碇ヶ関方面から大浦氏を攻撃した。乳井建清は高畑城に籠ってこれを迎え撃ち防戦に努めた。やがて為信からの後詰として手勢150が駆けつけた。さらに南部勢に九戸政実の謀反の噂が届いたため、南部勢は三戸に引き上げた。

その後、大浦為信は堀越城を拠点として南部氏の諸城を次々と攻撃していく。堀越城は、土塁と水堀で防御した平城で、本郭は、東西約80m、南北約90mで、高さ約2mの土塁と幅約10mの水堀で囲まれていた。本郭の東側に二ノ郭が配され、それを囲むように三ノ郭がある。現在は、本郭跡は熊野宮となっており、国指定史跡として土塁や水堀が復元整備されている。

津軽平野で残る南部氏の拠点は、浅瀬石城と大光寺城だったが、為信はこのとき浅瀬石城の千徳氏とは、津軽統一後は大浦氏と千徳氏で二分して支配する密約をなしていた。千徳氏は、南部氏一族の一戸氏の流れとされ、石川高信が津軽の支配を強めるために石川城に入った際に、その補佐として浅瀬石城に入った。しかし、南部宗家の内紛に嫌気がさし、津軽での独立の野望を持ったのかもしれない。大浦勢は、天正2年(1574)、この千徳氏とともに大光寺城を攻めた。

この時期、大光寺城は高畑城からこの城に入った滝本重行が守っていた。大浦為信は3千の大軍で大光寺城へ攻め寄せたが、重行は剛勇の将であり、大浦勢の大軍に臆することなく、7百の精鋭を率いて大浦勢の本陣へ突撃した。不意を突かれた為信は敗走した。しかし、天正4年(1576)正月、為信は再度大光寺城を攻め、重行は不意を突かれた形になり、奮戦むなしく大光寺城は落城、滝本重行は逃れた。

津軽平野をほぼ手中にした為信の次の目標は、浪岡の北畠氏だった。北畠氏は南北朝期からの名族で、南部氏を背景にしてはいたが、南部勢力というよりは独立した勢力で、また名族であるからこそ放置してはおけなかった。

浪岡の北畠氏は、北畠顕家の子の顕成のとき、南朝方の雄の南部氏の庇護のもと、文中2年(1373)、浪岡に入った。これは、津軽統一を目指す南部氏が、敵対する十三安東氏との争いに、北畠氏の権威を利用しようと考えたからだったと思われる。その安東氏も南部氏により蝦夷地に追い落され、広大な津軽平野は南部氏の支配下に置かれ、津軽平野の北部、東部の仕置は浪岡北畠氏に任されていた。

北畠氏は浪岡に居館を構え、後醍醐天皇以来の権威を持ち、この地方では「御所」と呼ばれ、盛んに京都とも交流を持っていた。しかし、一族の結束力は弱く、永禄5年(1562)、「川原御所の乱」が勃発し、当主の具運が殺された。一族は動揺し、北畠家中は主家を見限る者が続発し北畠氏は衰退しつつあった。一族の北畠顕範は、具運の嫡子顕村を御所に据え、北畠氏の勢力を維持しようとした。

為信はこの機に乗じ、北畠氏の家臣を切り崩し、浪岡城下を野武士達を使って混乱に陥れ、その上で天正6年(1578)(異説あり)7月、大浦勢の本隊3千が三方から攻め寄せた。大浦為信は策を用い、城主の北畠顕村の遊び仲間を取り込み、駕籠に乗って避難するように勧めさせ、顕村を駕籠に乗せ、為信の本陣に駆け込ませた。また顕村の後見の顕忠は留守で、浪岡城内は大混乱となった。

城主の顕村は捕われ、後見の顕忠も留守中の出来事に、浪岡城の士気は無いに等しく、為信はほとんど戦う事なく浪岡城を攻略した。北畠顕村は為信に自害させられ、大名家としての名家北畠氏はあっけなく滅亡し、一族は南部氏や安東氏など各所に四散した。

ここまでの騒乱で、津軽・外ヶ浜地方の大勢は大浦為信の下で決したと言えるが、まだまだ流動的だった。また、天下は統一の方向に進みつつあったが、それもまた流動的であり、為信は、外交的に権力の動向を見定めながら、津軽独立を進めていくことになる。